父親の友人
父親の友人は戦争で行動を共にした人たちが多い。ここ数年自宅の本を整理している中で父の残した本もある。例えば以下の本は1987年12月20日第7版発行時のもので父親が69歳の時に購入したものだ。
インパール作戦従軍記―一新聞記者の回想 (岩波新書 黄版 269)
kichichanの本棚 (kichichan) - ブクログ
この 書籍には友人からの手紙が挿入されていた。内容に思い入れがあり友人を訪れ話題にしたのであろう
Lineの利用
個人間あるいは集団内部で共有化できる情報を確認していくのは個人あるいは集団を意味のあるものにする。Lineでは一連の連絡履歴が確認できる、また相手が読んだか否かを確認できる仕組みは有効だと感じている。
安否確認:数年前だが勤務先の方が帰宅時に休憩しコーヒーを飲みながら家族にLineで連絡、その最中に意識を失ってしまったそうだ。不審を感じた家族が探し回り、テーブルでうつ伏している本人を確認したそうだ。また最近では、友人が息子さんにLineで連絡し何時まで経っても既読マークが現れなかったそうだ。常々読むだけは直ぐに対応しているので、不審に思いアパートを確認したところ亡くなっていたそうだ。
利用の容易さ:母親の事例は若干異なる。彼女は60歳を過ぎたごろから友人たちと旅行や山歩きを楽しみ、74歳の時に連れ合いが亡くなってからも、友人たちとの旅行を続けていた。一人になって寂しさを感じることもあるだろうが、ある意味気楽な面もあると思われる。しかし徐々に友人や自分の体も弱ってきていたが、82歳の時重たいもの(18lの灯油缶)を持ったためか圧迫骨折を起こし一月ほど寝たきりとなったことが、体が目に見えて老いてきた最初の兆候であった。その後年齢と共に介護度が増加していった。適宜回復してきたものの、風呂などは主に施設で入浴していた。また86歳の時肺炎になり入院、その後老人介護保健施設のリハビリテーションで車椅子生活に慣れ、自宅生活を再開した。当時、勤務先・外出先からの連絡なども必ずしも容易に電話に出られないことも多々あり必ずしも十分な連絡体制を提供できなかった。タブレットを渡し、どこでも携えさせたら寂しい気持ちが晴れる一助になったかと思える。
情報の共有化:現在家族と離れており、それぞれが一人暮らしです。この機会にLineの連絡実績などを確認してみました。連絡頻度など確認してみました。運用環境はタブレットです。
各連絡件数を月別利用件数として取り纏めた図からは8月・
Lineの連絡には文字テキスト・スタンプ・音声通話・
件数が最も多いテキストについて、月別のテキスト文字数を確認した。テキストでの連絡は含まれている文字数を確認してみました。
音声通話での連絡は3月・計18時間が多い時期なので、
自宅テレビアンテナの更新
自宅にテレビアンテナを設置した。自宅の地デジ放送はケーブルテレビから無料配信されていたものを利用していたが、配信を有料化するということで、アンテナを設置した。その経緯を以下に記した。
【従来からのテレビ受信状況】
自宅は戦前からあった一戸建て住宅で、小学生時代に改築・その後約30年後の1995年に取り壊し・新築した。新築以前に付近の小学校が鉄筋4階建てになったためテレビ難聴地域となり地元ケーブルテレビを利用して一般テレビ放送が無料配信されていた。
新築時に独自のテレビアンテナを設置する機会かと考え、電波強度の確認を依頼した。結果は設置は無理だという回答であった。まだアナログ放送の時代である。その後東京スカイツリーからテレビ番組がデジタル発信されるようになるとともに難聴地域では無くなって、ケーブルでの無料配信が停止がすることになった。
選択肢は、以下の三択である。1. 地上波デジタル放送を利用しない・2. 独自でアンテナを設置・3. ケーブルテレビと契約。1は実態に合致しない、3ケーブルテレビ契約では、地上波デジタルに加えさらに様々な情報が入手できるようだが、インターネットの利用を考慮するとさらにテレビからの映像情報は不必要であると考えられる。2自宅での独自アンテナ設置では、設置費用・今後の保守点検などが懸念材料である。1階の屋根利用あるいは2階の外壁利用で有れば、自己設置・自己保守点検は可能であると考えられる。2階屋根への設置はできるだけ避けたいところだった。
近隣のアマチュア無線アンテナを設置している方に設置方法・電波強度の確認方法などを問い合わせたところ、未利用のアンテナを借用できた。2階窓から1階屋根上に移動し、アンテナでの受信確認・1階屋根を足場にした2階壁面の取り付け方法などを検討した。彼から2階屋根最上部換気口から横にアンテナを出すことが最も感度がいいので検討できないのか確認があった。
屋根最上部換気口からのアンテナ設置はともかく、屋根裏から最上部換気口周辺へのアンテナ持ち込みを検討した。インターネットで確認すると、地デジアンテナの屋根裏設置事例が見受けられた。なお外壁がガルバリウム鋼板などの金属材料はテレビ電波の遮蔽効果があることが注意事項である。自宅は屋根材がガルバリウム鋼板、壁材が窯業系サイディングで構成されている。屋根裏最上部換気口に持ち込んだアンテナは、外壁換気口周辺は上部小屋根から離れ壁部分に接しているためか受信可能エリアだった。換気口内部に設置することとし付属のブースターと合わせて屋根裏内設置とした。あわせて屋根裏に分配器を設置、1階・2階の分岐ケーブルを設置した。最終的に借用した未利用のアンテナを改めて購入することとし、テレビアンテナの設置は成功した。アンテナの劣化防止・保守点検の容易さなどにメリットは大きい。
屋根裏最上部・換気口内側に設置したアンテナ
天井裏:従来のケーブルテレビのケーブルは2階外壁軒天から内部に引き込んでいる。この部分は上部の屋根が金属のためアンテナを信号は受信できなかった。
電気工事を請け負っている友人と会う機会があったので、アンテナ工事について話題交換した。彼はアンテナを天井裏に設置できるとは考えてもいなかったそうだ。従来地上波デジタル放送の利用周波数帯470Mhz-770Mhz、衛星デジタル放送は11.7-12.2Ghzなので、電波特性を考えると地上波デジタル放送については天井裏の活用も選択肢の一つである。一方住宅の屋根勾配が少なく屋根裏が十分確保できない・金属屋根であるなど個別の状況に依存するので、一律にアンテナを設置してきた歴史背景があるのかもしれない。
なお付近の地デジ放送局は以下のサイトで確認することができた。
基礎概念:世界観
最近「生命の惑星」という書籍を読んだ。出版元の説明は以下で確認できる。
最近の地球観を確認するためには、地球の歴史・鎌田浩毅(中公新書)も参考になったが、標記の書籍は発見のプロセスの説明も詳しく僕の学生時代に比べて大きく認識が進歩していることが実感させられた。学生時代の最新情報は既に40年以上前なのである意味変わっていても当然であろう。
総体として次の内容が記されていると感じている。ビックバーンによって発生した宇宙は内部で相互作用を繰り返しながら、地球が生まれた。地球は独自の環境条件の中で進化を続け、その過程で生命が生まれ自己をエネルギー的に拡大しつづけている。これらのそれぞれの詳細は、物理学・化学・宇宙物理学・個体地球物理学・流体地球物理学・地質学・生物学の各分野で研究・理解されてきたが、大きく変化している宇宙のある時空間に生存していることが実感をもって感じられた。
興味深かったのは、上記のサイトは翻訳した「講義資料」をダウンロードできるようになっていたことだ。
特に確認したかった以下の章をアクセスしてみた。
第20章 舵を取る人類:惑星の文脈における人類文明
第21章 私たちはひとりぼっちか?:宇宙の生存可能性についての疑問
もうすこし原著の考え方・資料などに直接アクセスしたいと考えたら、著者の一人の講演が残っていた。
How to Build a Habitable Planet: The Story of Earth from Big Bang to Humankind
さらに調べると、南京大学で以上の書籍を参照した講義が行われていたことを確認できた。
How to Build a Habitable Planet
これは同大学、以下で開講された英語コースだった。
2015-08-12 How to Build a Habitable Planet
そこで参考資料として以下のサイトが確認できました。
このサイトでは各章の「Lecture Powerpoints」と「Book Figures」をダウンロードできる。翻訳したダウンロード「講義資料」よりさらに充実しているように感じた。
情報の活用体制が整備されていることに驚いた。
上記再確認できた{http://www.habitableplanet.org/(再確認2020/06/10)
この書籍を読んで改めて気づかされたのは、以下だった。
1。宇宙進化の過程で、たまたま環境に恵まれた部分で生命が生まれた。
2。効率的にエネルギーを含めた環境を活用する生命が繁栄してきた。
3。現在繁栄している人類だが、500年前までは現在の人口 の1/4だった。
4。500年前の大航海時代から、人類の地球上に偏在する資源・エネルギーの活用が本格化した。
5。今後とも人類の活動はあらゆる意味で活発化するであろう。
6。最近地球と同じ環境にある惑星が発見される数が飛躍的に増加している
7。中には生命が生まれ進化していく惑星もあるだろう。同様に生命が進化の過程で環境を有効活用するには時間がかかるが、ある時点から利用速度が速くなる。
8。今後ともそれぞれの環境で生命が生き残り、5と7が接触することがあれば、お互いの環境活用レベルは同じである可能性は低い。
この気付きを具体化したいと考え、図を探しているときに得られた情報だった。この書籍については改めて最近の情報を網羅的に整理しているのが新鮮だったが、それぞれの事実は改めていろいろなところに記載され更新されていることにも気づかされた。たとえば惑星の発見数など。
現在地球に偏在しているエネルギー資源の活用・AI活用の進化なども、5に関して具体的に活発化している事例だ。あわせて多くの知識が追加・更新されていくのだろう。したがって40年以上前の知識が更新されていくことは必然だろう。増大する知識・変わる周辺環境をますます常に認識し続けることが不可欠であろう。
父親の戦争体験
父の具体的な軍歴を示す資料が残っていた。結構解読が面倒だったので見るだけだった。しかし2019年『文藝春秋』(6月号)に村上春樹が父親との確執を彼の戦争体験を絡めて記載していた。
村上春樹が父親との確執を告白、いつか来る死を意識か|NEWSポストセブン
父の軍歴を改めて整理し理解することが必要であることを自覚し、資料を確認し電子的に記述し確認することにした。
この証明書は以下のような方法で入手できるようだ。
軍歴証明書を、年月日(西暦)・当時の年齢・軍歴と整理した。父親の生きてきた環境・背景を知るためには、元号表示を西暦に改めたほうが便利である。
実際の太平洋戦争については、具体的にはあまり考えなかったことがよく分かった。 父が初めて戦場に立ったのは20.5歳の時であろう。
1939/01/01・20.5歳:軍歴【泰安鎮着同日第二中隊編入】
南京事件は既に終わった時期である。
南京事件【1937(昭和12)年12月13日の南京陥落の翌日から6週間の間に、女・子供を含む南京市民や無抵抗な中国軍兵士の捕虜(国民党、現台湾政府軍)を含む約30万人が殺害されたとされる事件】
その後、以下のように21.3歳で国内に向かっている。ノモンハン事件は、国内に向かう前・現地滞在期間中に終了している。父親が初めて戦場に出たのはノモンハン事件だったといっていたことに対応する。
1939/10/26・21.3歳:軍歴【久留米陸軍予備士官学校に分遣のため泰安鎮出発】
ノモンハン事件:【1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと】
国内教育機関である予備士官学校滞在も以下のように短い期間で終了、再び現地に戻っている。
1940/07/01・22歳:軍歴【集合教育のため久留米予備士官学校に入校中のところ卒業帰隊・見習士官を命じ曹長の階級に進む】
1940/07/15・22歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に転属】
1940/07/24・22.1歳:軍歴【宇品港出航】
1940/07/24・22.1歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務に従事す:戦地戦務加算(40/07/24 - 41/04/30)】
1940/07/27・22.1歳:軍歴【上海港上陸】
その後再び国内に徴収初年兵を迎えに行き、彼らと共に第15師団・祭部隊としてインパール作戦に関わっている。
1942/01/24・23.6歳:軍歴【南京出発:昭和十六年度徴集初年兵受領員として内地出発のため・上海港出航・揚子江通過】
1942/02/27・23.7歳:軍歴【京都出発:初年兵引率帰隊のため】
1943/04/06・24.8歳:軍歴【第十五師団編制着手】
1943/04/20・24.8歳:軍歴【補輜重兵第十五連隊付・編制完結】
1943/04/20・24.8歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す(43/04/20 - 43/09/17)】
1943/05/13・24.9歳:軍歴【移駐のため南京出発】
1943/05/14・24.9歳:軍歴【上海着・以後上海駐留】
1943/09/18・25.2歳:軍歴【緬甸(ビルマ)派遣のため上海(呉瀬?港)出発】
1944/01/02・25.5歳:軍歴【ウ号作戦(44/01/02 - 44/07/05)及び次期態勢移行のための作戦参加(44/07/06 - 44/09/12)】
インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)【1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、現在では史上最悪の作戦と言われている】
【 高木俊朗著『憤死』(文春文庫 1988/06/10刊)を読む】との情報が以下にあったが、父はどのように感じていたのだろうか?父が亡くなったのは1995年(平成7年)10月7日77歳である。
http://www.sky.sannet.ne.jp/ken-abe/rondan-2016-04.html
ビルマ・インパール作戦を行った牟田口廉也第十五軍軍司令官の下で、祭第15師団(師団長・山内正文中将)は、山険かつ熱帯ジャングルの苛酷な戦場で苦闘し、三師団の中で最も多い死傷者を出した。
しかし、その評価は「弱い師団」といわれたことである。なぜそう呼ばれたのか。残された山内師団長の日記をベースに、山内師団長を補佐した参謀長岡田菊三郎少将から取材して、その視点から、牟田口軍司令官の罵詈雑言の督戦命令に振り回された祭第十五師団将兵の戦いを描いた高木俊朗の「インパール」シリーズ第4作である。単行本は昭和44年(1969年)、戦後24年、ほぼ四半世紀を経て出版された。文庫本の出版は、昭和63年(1988年)、昭和の時代が終わりとなるほぼ半年前であった。
以下が全ての軍歴である。整理に当たって、軍歴の経過を示す年月日(元号)では他の事件、当時の年齢と照合させにくいため、年月日(西暦)・当時の年齢・軍歴のように列挙・整理した。
1938/12/10・20.4歳:軍歴【現役兵として輜重兵第一連隊留守隊に入営】
1938/12/10・20.4歳:軍歴【【級等】輜重兵二等兵】
1938/12/22・20.5歳:軍歴【満洲派遣要員として東京出発】
1938/12/24・20.5歳:軍歴【神戸着同日神戸港出航】
1938/12/29・20.5歳:軍歴【大連港上陸/同日関東州境通過】
1939/01/01・20.5歳:軍歴【泰安鎮着同日第二中隊編入】
1939/05/01・20.8歳:軍歴【輜重兵科幹部候補生を命じ輜重兵一等兵階級を興う】
1939/07/01・21歳:軍歴【上等兵階級に進む】
1939/09/20・21.2歳:軍歴【甲種幹部候補生を命ず】
1939/10/26・21.3歳:軍歴【久留米陸軍予備士官学校に分遣のため泰安鎮出発】
1939/11/01・21.3歳:軍歴【輜重兵伍長階級に進む】
1940/04/29・21.8歳:軍歴【支那事変従軍記章授与】
1940/07/01・22歳:軍歴【集合教育のため久留米予備士官学校に入校中のところ卒業帰隊・見習士官を命じ曹長の階級に進む】
1940/07/15・22歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に転属】
1940/07/24・22.1歳:軍歴【宇品港出航】
1940/07/24・22.1歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務に従事す:戦地戦務加算(40/07/24 - 41/04/30)】
1940/07/27・22.1歳:軍歴【上海港上陸】
1940/07/28・22.1歳:軍歴【南京着】
1940/10/31・22.3歳:軍歴【甲種幹部候補生の修業期間を終了】
1940/11/01・22.3歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に臨時招集・輜重兵第十五連隊附(聯隊附開始】
1940/11/01・22.3歳:軍歴【漢水作戦参加(40/11/01-40/11/29)】
1940/11/01・22.3歳:軍歴【【級等】少尉】
1940/11/30・22.4歳:軍歴【漢口附近の警備(40/11/30 - 41/01/18)】
1941/01/19・22.6歳:軍歴【予南作戦参加(41/01/19 - 41/02/28)】
1941/03/01・22.7歳:軍歴【漢口附近警備及び南京帰還輸送(41/03/01 - 41/03/12)】
1941/03/13・22.7歳:軍歴【巣湖南方作戦参加(41/03/13 - 41/04/04)】
1941/05/01・22.8歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務・大東亜戦役支那方面勤務に従事す(41/05/01 - 43/04/30)】
1941/06/22・23歳:軍歴【軍令陸甲第十五号に依り編制改正】
1941/06/25・23歳:軍歴【編制完結・輜重兵第十五連隊付】
1941/09/25・23.2歳:軍歴【江浦作戦参加(41/09/25 - 41/10/04)】
1941/12/17・23.5歳:軍歴【皖浙作戦(多分安徽省・浙江省方面の作戦か?もう少し小さい地名かも。調べればわかるね)参加(41/12/17 - 41/12/31)】
1942/01/24・23.6歳:軍歴【南京出発:昭和十六年度徴集初年兵受領員として内地出発のため・上海港出航・揚子江通過】
1942/01/27・23.6歳:軍歴【長崎上陸】
1942/01/28・23.6歳:軍歴【京都着】
1942/02/27・23.7歳:軍歴【京都出発:初年兵引率帰隊のため】
1942/02/28・23.7歳:軍歴【門司港出航】
1942/03/03・23.7歳:軍歴【揚子江通過】
1942/03/04・23.7歳:軍歴【南京港上陸・帰隊】
1942/8/20・24.1歳:軍歴【【級等】中尉】
1943/03/13・24.7歳:軍歴【軍令陸甲第二十二号に依り編制改正下令】
1943/04/06・24.8歳:軍歴【第十五師団編制着手】
1943/04/20・24.8歳:軍歴【補輜重兵第十五連隊付・編制完結】
1943/04/20・24.8歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す(43/04/20 - 43/09/17)】
1943/05/13・24.9歳:軍歴【移駐のため南京出発】
1943/05/14・24.9歳:軍歴【上海着・以後上海駐留】
1943/09/18・25.2歳:軍歴【緬甸(ビルマ)派遣のため上海(呉瀬?港)出発】
1943/09/30・25.2歳:軍歴【一等給下賜】
1943/10/02・25.3歳:軍歴【仏印西貢(サイゴンのこと。今のホーチミンシティ)上陸】
1943/10/06・25.3歳:軍歴【仏印西貢(サイゴンのこと。今のホーチミンシティ)発・メコン河口通過】
1943/10/06・25.3歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役泰国(タイ)方面勤務に従事す(43/10/06 - 44/01/01)】
1943/10/09・25.3歳:軍歴【盤谷(バンコク)着】
1943/12/13・25.5歳:軍歴【ランパーン着】
1943/12/19・25.5歳:軍歴【ランパーン出発】
1944/01/02・25.5歳:軍歴【緬甸ビルマ国境(カサイ)通過・ケントン着】
1944/01/02・25.5歳:軍歴【ウ号作戦(44/01/02 - 44/07/05)及び次期態勢移行のための作戦参加(44/07/06 - 44/09/12)】
1944/01/02・25.5歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役緬甸ビルマ方面勤務に従事す(44/01/02 - 45/08/06)】
1944/03/05・25.7歳:軍歴【ケントン出発】
1944/04/21・25.8歳:軍歴【印緬国境(フミネ)通過】
1944/07/16・26歳:軍歴【転進のため印緬国境(フミネ)通過】
1944/09/13・26.2歳:軍歴【磐作戦参加(44/09/13 - 45/01/16)】
1944/09/14・26.2歳:軍歴【緬甸ピンレグ着】
1944/12/05・26.4歳:軍歴【緬甸ピンレグ発・昭和19年軍令陸甲第一四〇号に依り編制改正下令】
1944/12/11・26.4歳:軍歴【編制着手】
1944/12/17・26.5歳:軍歴【編制完結・補輜重兵第十五連隊付】
1945/01/17・26.6歳:軍歴【イラワジ河畔の会戦並びにメークテーラ附近の会戦に参加(45/01/17 - 45/04/12)】
1945/04/13・26.8歳:軍歴【克作戦参加(45/04/13 - 45/05/30)】
1945/05/31・26.9歳:軍歴【後期克作戦参加(45/05/31 - 45/07/31)】
1945/08/07・27.1歳:軍歴【泰緬国境(ニーケ)通過】
1945/08/09・27.1歳:軍歴【泰国バンポン着】
1945/8/20・27.1歳:軍歴【【級等】大尉】
1946/05/07・27.9歳:軍歴【バンポン出発】
1946/05/14・27.9歳:軍歴【磐谷着】
1946/05/25・27.9歳:軍歴【磐谷(バンコク)出航】
・28歳:軍歴【浦賀上陸】
・28歳:軍歴【復員完結・予備役編入】
軍歴を表形式で表示した。
年月日 | 年_元号 | 月 | 対象者年齢 | 詳細 |
---|---|---|---|---|
38/12/10 (土) | S13 | 12 | 20.4 | 現役兵として輜重兵第一連隊留守隊に入営 |
38/12/10 (土) | S13 | 12 | 20.4 | 【級等】輜重兵二等兵 |
38/12/22 (木) | S13 | 12 | 20.5 | 満洲派遣要員として東京出発 |
38/12/24 (土) | S13 | 12 | 20.5 | 神戸着同日神戸港出航 |
38/12/29 (木) | S13 | 12 | 20.5 | 大連港上陸/同日関東州境通過 |
39/01/01 (日) | S14 | 1 | 20.5 | 泰安鎮着同日第二中隊編入 |
39/05/01 (月) | S14 | 5 | 20.8 | 輜重兵科幹部候補生を命じ輜重兵一等兵階級を興う |
39/07/01 (土) | S14 | 7 | 21.0 | 上等兵階級に進む |
39/09/20 (水) | S14 | 9 | 21.2 | 甲種幹部候補生を命ず |
39/10/26 (木) | S14 | 10 | 21.3 | 久留米陸軍予備士官学校に分遣のため泰安鎮出発 |
39/11/01 (水) | S14 | 11 | 21.3 | 輜重兵伍長階級に進む |
40/04/29 (月) | S15 | 4 | 21.8 | 支那事変従軍記章授与 |
40/07/01 (月) | S15 | 7 | 22.0 | 集合教育のため久留米予備士官学校に入校中のところ卒業帰隊・見習士官を命じ曹長の階級に進む |
40/07/15 (月) | S15 | 7 | 22.0 | 輜重兵第十五連隊に転属 |
40/07/24 (水) | S15 | 7 | 22.1 | 宇品港出航 |
40/07/24 (水) | S15 | 7 | 22.1 | 輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務に従事す:戦地戦務加算(40/07/24 - 41/04/30) |
40/07/27 (土) | S15 | 7 | 22.1 | 上海港上陸 |
40/07/28 (日) | S15 | 7 | 22.1 | 南京着 |
40/10/31 (木) | S15 | 10 | 22.3 | 甲種幹部候補生の修業期間を終了 |
40/11/01 (金) | S15 | 11 | 22.3 | 輜重兵第十五連隊に臨時招集・輜重兵第十五連隊附(聯隊附の続きは、多分「被仰付」(おおせられるにつき))・南京付近の警備開始 |
40/11/01 (金) | S15 | 11 | 22.3 | 漢水作戦参加(40/11/01-40/11/29) |
40/11/01 (金) | S15 | 11 | 22.3 | 【級等】少尉 |
40/11/30 (土) | S15 | 11 | 22.4 | 漢口附近の警備(40/11/30 - 41/01/18) |
41/01/19 (日) | S16 | 1 | 22.6 | 予南作戦参加(41/01/19 - 41/02/28) |
41/03/01 (土) | S16 | 3 | 22.7 | 漢口附近警備及び南京帰還輸送(41/03/01 - 41/03/12) |
41/03/13 (木) | S16 | 3 | 22.7 | 巣湖南方作戦参加(41/03/13 - 41/04/04) |
41/05/01 (木) | S16 | 5 | 22.8 | 輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務・大東亜戦役支那方面勤務に従事す(41/05/01 - 43/04/30) |
41/06/22 (日) | S16 | 6 | 23.0 | 軍令陸甲第十五号に依り編制改正 |
41/06/25 (水) | S16 | 6 | 23.0 | 編制完結・輜重兵第十五連隊付 |
41/09/25 (木) | S16 | 9 | 23.2 | 江浦作戦参加(41/09/25 - 41/10/04) |
41/12/17 (水) | S16 | 12 | 23.5 | 皖浙作戦(多分安徽省・浙江省方面の作戦か?もう少し小さい地名かも。調べればわかるね)参加(41/12/17 - 41/12/31) |
42/01/24 (土) | S17 | 1 | 23.6 | 南京出発:昭和十六年度徴集初年兵受領員として内地出発のため・上海港出航・揚子江通過 |
42/01/27 (火) | S17 | 1 | 23.6 | 長崎上陸 |
42/01/28 (水) | S17 | 1 | 23.6 | 京都着 |
42/02/27 (金) | S17 | 2 | 23.7 | 京都出発:初年兵引率帰隊のため |
42/02/28 (土) | S17 | 2 | 23.7 | 門司港出航 |
42/03/03 (火) | S17 | 3 | 23.7 | 揚子江通過 |
42/03/04 (水) | S17 | 3 | 23.7 | 南京港上陸・帰隊 |
42/08/20 (木) | S17 | 8 | 24.1 | 【級等】中尉 |
43/03/13 (土) | S18 | 3 | 24.7 | 軍令陸甲第二十二号に依り編制改正下令 |
43/04/06 (火) | S18 | 4 | 24.8 | 第十五師団編制着手 |
43/04/20 (火) | S18 | 4 | 24.8 | 補輜重兵第十五連隊付・編制完結 |
43/04/20 (火) | S18 | 4 | 24.8 | 輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す(43/04/20 - 43/09/17) |
43/05/13 (木) | S18 | 5 | 24.9 | 移駐のため南京出発 |
43/05/14 (金) | S18 | 5 | 24.9 | 上海着・以後上海駐留 |
43/09/18 (土) | S18 | 9 | 25.2 | 緬甸(ビルマ)派遣のため上海(呉瀬?港)出発 |
43/09/30 (木) | S18 | 9 | 25.2 | 一等給下賜 |
43/10/02 (土) | S18 | 10 | 25.3 | 仏印西貢(サイゴンのこと。今のホーチミンシティ)上陸 |
43/10/06 (水) | S18 | 10 | 25.3 | 仏印西貢(サイゴンのこと。今のホーチミンシティ)発・メコン河口通過 |
43/10/06 (水) | S18 | 10 | 25.3 | 輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役泰国(タイ)方面勤務に従事す(43/10/06 - 44/01/01) |
43/10/09 (土) | S18 | 10 | 25.3 | 盤谷(バンコク)着 |
43/12/13 (月) | S18 | 12 | 25.5 | ランパーン着 |
43/12/19 (日) | S18 | 12 | 25.5 | ランパーン出発 |
44/01/02 (日) | S19 | 1 | 25.5 | 緬甸ビルマ国境(カサイ)通過・ケントン着 |
44/01/02 (日) | S19 | 1 | 25.5 | ウ号作戦(44/01/02 - 44/07/05)及び次期態勢移行のための作戦参加(44/07/06 - 44/09/12) |
44/01/02 (日) | S20 | 1 | 25.5 | 輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役緬甸ビルマ方面勤務に従事す(44/01/02 - 45/08/06) |
44/03/05 (日) | S19 | 3 | 25.7 | ケントン出発 |
44/04/21 (金) | S19 | 4 | 25.8 | 印緬国境(フミネ)通過 |
44/07/16 (日) | S19 | 7 | 26.0 | 転進のため印緬国境(フミネ)通過 |
44/09/13 (水) | S19 | 9 | 26.2 | 磐作戦参加(44/09/13 - 45/01/16) |
44/09/14 (木) | S19 | 9 | 26.2 | 緬甸ピンレグ着 |
44/12/05 (火) | S19 | 12 | 26.4 | 緬甸ピンレグ発・昭和19年軍令陸甲第一四〇号に依り編制改正下令 |
44/12/11 (月) | S19 | 12 | 26.4 | 編制着手 |
44/12/17 (日) | S19 | 12 | 26.5 | 編制完結・補輜重兵第十五連隊付 |
45/01/17 (水) | S20 | 1 | 26.6 | イラワジ河畔の会戦並びにメークテーラ附近の会戦に参加(45/01/17 - 45/04/12) |
45/04/13 (金) | S20 | 4 | 26.8 | 克作戦参加(45/04/13 - 45/05/30) |
45/05/31 (木) | S20 | 5 | 26.9 | 後期克作戦参加(45/05/31 - 45/07/31) |
45/08/07 (火) | S20 | 8 | 27.1 | 泰緬国境(ニーケ)通過 |
45/08/09 (木) | S20 | 8 | 27.1 | 泰国バンポン着 |
45/08/20 (月) | S20 | 8 | 27.1 | 【級等】大尉 |
46/05/07 (火) | S21 | 5 | 27.9 | バンポン出発 |
46/05/14 (火) | S21 | 5 | 27.9 | 磐谷着 |
46/05/25 (土) | S21 | 5 | 27.9 | 磐谷(バンコク)出航 |
S21 | 6 | 28.0 | 浦賀上陸 | |
S21 | 6 | 28.0 | 復員完結・予備役編入 |
以下が軍歴証明書である。氏名などの個人を特定できる部分には付箋を配置した。
トイレ設備更新
トイレを更新した。周辺を整理してトイレ奥に行きやすくしたので、トイレ後の手洗いが楽になった気がする。以下にメモを残しておく。
品名:アメージュZAシャワートイレ(LIXIL DT-ZA282PM手洗付)・寸法:391W*754D*857H・消費電力:300W・便器洗浄方式:ネオボルテックス式壁排水・洗浄水量:大6.5L小3.8L
設置にあたっては、以下の2点を依頼した。
1. 正面収納棚扉の1cm程カットによる手洗いの干渉除去
2. タオル掛けの右側の壁入口側から左側の壁奥手洗い横への移動
左奥に進み手を洗いタオルで拭く一連の作業動線を纏めたのでわかりやすくなった。一方左奥まで床を覆うマットが欲しいところである。
手洗い時に便座蓋を開けたままだと干渉するので必然的に閉めることになる。便座温度維持に伴う節電には貢献する
トイレ更新日(請求書記載日:平成31年1月20日)請求金額172,800円(収納扉加工費20,000円を含む)
空調設備の更新
従来空調設備として、霧ヶ峰MITSUBISHI(2004年MSZ-ZR40PS-W;暖房13-17畳・冷房11-17畳)を利用してきた。平成21年(2009年)に内装リフォームを行ったときに、旧来の設備を引き継いだものである。内装リフォームでは、旧来の居間・食堂・台所を一体化・窓側のリビングダイニング43m2(26畳)に改装したため、若干能力に不安があったが、結果的には問題がなかったため今回も同程度の能力として以下を選定した。購入後すでに15年が経過していたこともあり夏の暑い時期を迎える前に更新しておきたいとの考えもあった。
ダイキン 14畳向け 自動お掃除付き 冷暖房インバーターエアコン KuaL うるさら7 ホワイト ATR40WPE7-WS(冷房の目安:11~17畳/暖房の目安:11~14畳/冷房能力:4.0(0.5~5.3)kW/暖房能力:5.0(0.4~12.2)kW/低外気温暖房能力:9.1kW)
実際取り付けてみると、室内機・室外機ともに大きくなったことを実感した。実際仕様を確認すると以下のようであった。
室内機(W*H*D/Kg) 840*298*248/12 > 798*295*370/16.5
室外機(W*H*D/Kg) 800*550*285/41 > 850*729*320/49
設置年月日:2019年4月22日、更新費用246.000円
フィルター掃除機能による室内機の取り付け時にわかったこと:以下の写真はエアコン用200Vコンセントから下方向にひび割れが直線的に10cmほど伸びさらに8cmほど続いていた。その後水平な段差となって空調スリーブを含み32㎝程伸びていた。取り付け業者は地震の揺れでボードにひびが入っているのではないかと言っていた。とりあえずボンドを詰めて処置しているとのこと。
対処方法:現状では右側は配管で固定・左側は2-3㎜特に上部が浮くような状況であることをして確認して経過観察とする