時代の目標・日本:敗戦後の国際社会への復帰

日本の高度成長期、そしてバブル崩壊に至った後、日本では時代の目標が見えにくくなっている気がする。逆に過去に時代の目標を大きく意識した・せざるを得なかった時代は明治でしょう。

江戸から明治時代に至る過程での時代の目標は、開国後の国際社会で覇権国家の一員として認められるということでしょう。

江戸時代鎖国政策を続けてきた日本は、開国を迫られた。開国にあわせて国内体制を見直し、英米を見習って富国強兵に努め、新たなエネルギーなどを国内に導入したのが明治時代といえるでしょう。ちなみに司馬遼太郎は、江戸時代から明治にかけて日本が変わっていく時代を小説で紹介しました。

明治時代から整備していった支配体制を敗戦によって失いました。

敗戦までの経過は以下のようなものかと思います。

1945年3月10日:東京大空襲/一夜で東京の40%が焼失/約10万人が死亡
1945年7月:アメリカ・イギリス・ソ連の首脳は、ポツダム会談を開く。
1945年8月: 広島(6日)と長崎(9日)に原爆が落とされる。ポツダム宣言を受諾して降伏(14日)、天皇のラジオ放送で終戦を発表(15日=終戦記念日)

その後国際社会に再び認められ受け入れられることをいろいろな側面で努力したわけです。国際社会復帰の過程で日本人は徐々に自信を回復していきました。個人にとっても、その過程の一翼を担う・参画することが分かりやすい目標となります。その過程の一端はNHKプロジェクトXとして放映され様々な人々が熱狂したものです。

ここで南極観測を取り上げてみましょう。当然南極観測も、ある意味時代の目標の一端として開始されました。経過を以下に記載しましょう。(南極観測・世界の共同観測)

以下直接南極観測とかかわりのある事項については赤字で記載します。

1949年:湯川秀樹日本人として初めてノーベル賞を受賞/1935年に理論的に予言した中間子の存在が、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより実証されたことによって、理論の正しさが証明された。

1951年:サンフランシスコ講和条約署名(9月8日)

1952年:日本国際連合に加盟申請、冷戦の最中で、ソ連など社会主義諸国の反対

1955年:国際地球観測年・日本も南極観測参加の意思表明、敗戦直後ということから他国の反発があり、「資格なし」とされた。白瀬隊の実績を挙げて「資格あり」と反論、最終日になんとか認められた。

1956年:永田武隊長によって編成された南極地域観測予備隊(隊員53名)がその創始、のちに第1次南極地域観測隊と呼称が変更された。当初は2次で終了する予定であったがその後延長された

1956年:日本隊マナスル初登頂(5月9日)/この成功は戦後の日本登山界に画期的な影響があり、空前絶後の登山ブームを巻き起こすなど社会現象になった。

1956年:日ソ共同宣言/ソ連との国交回復(10月)、国際連合に加盟(12月18日)の総会における全会一致の承認でもって80番目の加盟国として国際連合加盟

1959年:12か国による南極条約に署名

 上記の白瀬隊は、明治時代に日本人として初めて南極観測を行った人物:白瀬矗が率いた南極探検隊です。くしくも同時期に、ノルウェーアムンゼン、イギリス・スコットが南極点を目指していました。白瀬矗は明治45年(1912年)1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名、スコットが南極点に到達したのは、ちょうどこの翌日です。同地は上陸、探検に不向きであったため、再び開南丸でロス棚氷・クジラ湾に向かうことになりました。クジラ湾内では、南極点初到達から帰還するロアール・アムンセンの探検隊を収容するために来航していたフラム号と遭遇、限られた形ながら接触している(WikiPediaによる)。