寒い時期のiPhone
だんだん寒くなってきた。今朝起きてiPhoneの電源を入れたらアップルマークが表示されてからすぐにダウンしてしまった。再度入れたら低電圧モードへの変更の指示があったものの、利用できた。電源表示を確認したら電圧が9%と表示されていた。OSが新しくなった昨年の冬にはしばしば体験していたことだ。低温のためだと思っていたので、しばらく胸に入れていたが、あいかわらず電圧が下がったままだった。再び電源を入れ直すと、電圧が48%に回復していた。
設定からバッテリーを確認した。タブ「24時間以内」を確かめると、11月30日に50%前後の電圧が12月1日の朝に電源を入れた時には10%程度に下降していた。その後充電せず胸で暖め再起動すると、再び電圧は回復していた。
タブ「10日以内」で確認すると火曜日に使用状況が大きいことがわかる。火曜日はハイキングに行ってGPSを利用して終日ルートをトラッキングしていた。途中で電圧が下がってきたのでモバイルバッテリーで充電しながら行動を継続した。
バッテリー状況では、最大容量が89%を示していた。つい最近まで92%だったはずだ。
以下のように、現在Appleでバッテリーを交換すると割引になるが、送るのが面倒な気もするので80%以下になるまで待ってみようと考えた。
* 2018 年 12 月 31 日までの間、対象となる iPhone 6 以降のモデル (iPhone SE を含む) の保証対象外バッテリーサービス料金を 3,200 円とさせていただきます。なお、3,200 円にてバッテリーサービスを受けられるのは iPhone 1 台につき 1 回限りとさせていただく場合があります。2019 年 1 月 1 日以降は、iPhone X の料金が 7,800 円に、その他すべての iPhone モデルの料金が 5,400 円に改定されます。
iPhone のバッテリーと電源 - Apple サポート 公式サイト
緑内障になっていた
緑内障が確認されました。強いて言えばバランス感覚が悪くなったかも
2018年9月20日に眼科に行きました。最近パソコン作
視野検査を行うと案の定右目の視野の一部が欠けているようです。
「ハンフリー視野検査」の詳しい説明は以下です。
目の検査については今まで以下のように行っていますが、全く指摘
2016年2月9日に眼科で受けた疲れ目の検査、2015月8月
今回眼圧の測定結果は16mmHg、10~20mmHgが正常範囲とされているそうなので、正
視野検査結果は右目・左目は以下のようでした。特に右目の黒い部分が視野が欠けているそうです。
緑内障は遺伝的性格を持つともいわれているそうなので、身内
点眼薬の処方を受け、ほぼ1週間後の9月26日に再び眼圧測定を行いました。眼圧に全く変化がないので、今後とも毎日点眼を続け1-
緑内障の確認のため自分の指を利用し視野テストを行ったが、あま
なお初期の目的であるパソコン作業につかれることについては、ス
また緑内障については「公益社団法人 日本眼科医会」の
「トップページ > 目についての健康情報 >よくわかる緑内障―診断と治療―」
に取りまとめられています。よ
要約すると
緑内障は決して珍しい病気ではありません。日本では、40歳以上
緑内障の診断の原則は、眼底検査で視神経が減った場所があり、そ
眼圧を下げることにより、緑内障が進行しにくくなりますので、で
眼圧は10~20mmHgが正常範囲とされていますので、20m
開放隅角緑内障では、病気がかなり進行するまで自覚症状はほとん
緑内障の診断のためには、眼圧検査、目の奥の検査(眼底検査)、
その際には、眼圧が正常範囲(10~20mmHg)に保たれてい
また日本眼科学会の以下も参考になります。
http://www.nichigan.or.jp/public/disease/ryokunai_ryokunai.jsp
当面、点眼薬を確認しながら眼圧を下げていくことに努めるのであろうと思われる。
現在処方されている点眼薬はタプロス点眼液0.0015%です。使用方法については以下が詳しい。
9月に発見して2ヶ月も過ぎた11月30日6回目の検査を受けました。最初左右ともに15mgHgであった眼圧は、点眼を続けている右目は11mgHgに下がっています。今後とも続けていく方針を確認しました。
友人たちとの旅行を通した行動
2018年9月1日友人たちと宿泊旅行を楽しんだ。この旅行は毎年一回企画されている。僕が参加し覚えているのは、仙台・夕張岳・松本だ。今回愛媛県津和地島が選択され、9月1日の松山市駅から翌日の松山・大街道まで原則幹事と行動を共にすることになる。
2018年9月1日(土) 松山市駅14:30発 --(伊予鉄郊外電車)--> 高浜 14:51着 高浜 15:25発 --(高速船4便)--> 津和地島 16:29着
2018年9月2日(日) 津和地島 8:43発 --(高速船2便)--> 高浜 9:36着 高浜-->道後温泉駅 11:00頃着
道後温泉本館の御座敷2階か3階で、12:30頃まで入浴・道後温泉-->大街道 13:00頃から遅い昼食14:30頃に解散
いい機会なので、松山から八幡浜に出て、別府に立ち寄って戻りたいと考えた。早速成田からLLCを松山まで予約し、前日には松山に入っておくこととした。その後一緒に参加する友人から松山に暮らす大学時代の友人と会食を企画しているとの連絡があり松山に入った時間を前提に参加したい旨連絡した。以下に今回の飛行ルートを表示した。
航空機が松山空港に降りる時、窓から海に浮かぶ島並が見えた。これが明日訪れる島かと新しい体験を期待した。
松山での前日の会食は、各自の現在の興味などを紹介するとともに、また若い時の興味なども確認するなど楽しいものだった。松山在住の友人は大学時代同じ下宿だった時期もあったことが思い出された。
翌朝は、ホテル近くの秋山兄弟生誕地を通り、坂の上の雲ミュージアムに向かった。
坂の上ミュージアムの坂道を登っていると、自転車の女性から「さらに登った萬翠荘(ばんすいそう)を先に見た方が、松山での人間関係がよく理解できる」旨示唆された。確かに松山城のある山のふもとに建てられた立派な洋館だった。特にシンメトリーでないことが独自性があるそうだ。現在3階の屋根裏構造が見学できないことが残念だった。
その後坂の上ミュージアムを見学していると、ボランティアが市内の一部を案内してくれるという放送があった。いい機会なので行ってみると市内の句碑などの循環、県庁と二ノ丸公園の2コースがあった。建物に興味があったので後者を選択すると、案内ボランティアは朝会った自転車の女性だった。あいにくの雨交じりの天候で参加者は僕一人、説明時に自由に質問できるなど申し訳ない気持ちもあったが個人的にはむしろ楽しむことが出来た。
県庁は最上階がドーム構造の立派な建物だ。このドームの下は会議室として現在も利用されているそうだが、残念ながら見学はできないそうだ。
外壁を飾る石の柱には装飾が施されている。手触りを楽しむことも可能だ。
建物内部にも装飾、大理石だろうか。ここにもきれいな文様が施されている。
各階の天井は高く、階段の部分は吹き抜け。立派な石造りだ。
降りた所の床で、ボランティアガイドさんが床の大理石に入っている化石を紹介してくれた。自分でも全て探せてはいないそうだ。
最後に再び外に出て再度建物を見た時、数年前に見学した神奈川県庁を思い出した。そこでは屋上に出られて外が眺められたことを思い出した。
県庁から城壁を眺めながら、二の丸御殿に向かった。内部に建物は残ってなかったものの、部屋割りを示す区画が石造りの建物の土台として再建設されていた。一番見たかったものは大きな池だ。今年は降雨が少なく水が余り貯まっていないそうだ。公園自体は落ち着いた佇まいだっだ。
さらにしばらく行くと小学校がある。現在島には小学生がおらず休校中だそうだ。
耕作地は島の反対側が多いようだ。道路脇から物資を輸送するワイヤーがかかっている。
旅館の食事は、海産物尽くし。さすがに瀬戸内海の島という感じ。
翌朝町の東側へ散策、ふっと西側に目を移すと町の上の方にお寺が見えた。早速朝食後の時間を見つけて確認することに。確かにちょっと町から登った所にお寺があった。
このお寺には車がどうにか入れる道がついている。津波の危険があるときに避難する場所としては最適な気がした。海を臨む鐘撞堂からは海がきれいに見渡せた。港での船の待合室近くにもお墓があった。陸軍兵士として亡くなった方数人の階級を記載した大きな墓が印象的だった。近代の国民をすべて巻き込んだ総力戦だったことを改めて確認した。
島をあとにして再び松山に、道後温泉に入った。美しい木造の建物で、数か所の休息所・風呂がある。建物内部を見学しその造りに見入った。ガイドの写真を取ってもいいが、ネットに上げないでくれという指示でここまで。
豊予海峡横断きっぷ(片道タイプ)|四国旅行 JR四国ツアー(駅コミ)
車内で確認したら、松山・八幡浜間で途中下車はできない。内子か大洲を昼食がてら散歩してみようという計画は諦め、直接八幡浜に向かうこととする。JR八幡浜駅から旧市街を眺めながら港に向かうこととした。ちょっと道路から引っ込んだ坂沿いに八幡神社があった。石段を登って行くと面白い石碑があった。
興味を惹かれたので改めて確認した。
別途、NHKのテレビ放映「コスミック・フロント"はやぶさ2"」という番組で、京都府八幡市の飛行神社に祈願に訪れている話題の中に「二宮忠八」の名を聞きました。
改めて確認すると、「忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために京都府八幡市に飛行神社を設立、自ら神主になっている」そうです。「大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて1906年(明治39年)に支社長にまで昇進する」など興味深い人でした。
神社脇から近くの街並みをみると懐かしい古民家が見られる。周辺まで行くことにした。
道路わきに古い建物が現れたが歯科医院だったようだ。旧市街の全体像がわからないまま港に向かった。
なかなか味わい深い街だと感じながら八幡浜港に着いた。港には「道の駅」や市場があり、また観光用の地図なども充実していた。以下のような地図を事前に手に入れていたらもっと楽しめたと思うと残念であった。
フェリーに乗船しのんびりとくつろいでいたら、間もなく別府港への下船が近づいた。
帰路は、大分空港から成田空港の間が航空機だ。航空機から八幡浜が確認できた。JRは中央・東西の河川沿いに松山と接続し、南東方向に西予・宇和島方面への進行方向を変える。上記のまちなみマップの一部である保内は八幡浜の北側の平地部に栄えたものだ。機会があれば散策したいものだ。
ブログなどの利用・活用について
このブログを始めたのは、2017/4/28のようだ。すでに一年以上経過している。始めた時にはいろいろな思いがあったと思うが、この間結果的に十分活用したわけではない。2018年6月29日に高校時代の友人から近況を尋ねられた時、簡潔な回答に窮した。彼は行っていることを要点を簡潔に説明し、詳しいことは別途ネット上にでも記載しておけばいいと言っていた。全くその通りだが、逆にこのブログの各ページも、そのような緊張感を有しているわけではない。改めて整備してみようと感じた。また「はてな」ブログの継続利用については、3年程前に買い替えたスマホに徐々に慣れ始めいる今「はてな」ブログ専用のアプリもあることも材料の一つである。
ここで僕のインターネットでの作業履歴を確認してみよう。
仕事が忙しかった1990年代だろうか、業務グループ内の様々な個別事項の進捗状況をwebに公開し進捗管理を行おうと考えたことがあった。ホームページの構成はできたが、常時更新する時間もなくまた結局そのままになってしまった。その後個人利用を中心に簡潔なブログ形式が活発に利用されるようになってきた。
によると、【2006年(平成18年)の第4四半期には全世界のブログ投稿の約37%を日本語によるものが占め、英語や中国語を上回る第1位となっていた[4]。】そうだ。
ブログを利用し、自分の作業メモを残しておく・適宜検索してメモの確認・更新を行うなど魅力であると考え、ブログを開設したが、数回の投稿に終わってしまった。その後も他のサイトも利用したが同様であり、記載する内容・テーマが明確でない・業務内容に関わる意見については躊躇する部分が不鮮明であるなどに起因していると思った。
メモの記載という意味で今まで続いているのは読書記録である。たまたま何かの機会に読書記録を保管しておく以下のサイトを確認した。
今までにも自分の図書を整理する機会に、文庫本など複数冊購入したものがあったことを実体験している。整理時に購入した時期を確認、自分の興味が継続していることを再確認することもあったが、読んだことを忘れている・自覚がないことも気になった。かつて、自分の書籍を整理しようと、MSDOS上でカード型データベースを利用したこともあった。このサイトにユーザー登録し読んだ本を登録するとともに、インターネット上の公開されているさまざまな方の読後感などを確認した。時には読後感の意見を参考に読んだ方の読書歴をみて興味ある書籍にたどり着いたこともある。このサイトへの最初の登録記録は2009年5月11日で、その後現在1230冊を確認している。最近では読む前に登録を確認し、再読する場合には以前との読後感を比較している。自分の読後感で気になった事項について、キーワードとして検索できるは便利である。このブログの以下の情報についてはこのデータベースを利用したものである。
現在このデータベースの内容については非公開にしている。理由は記載した読後感について、公開を前提に整備していないためである。以前公開していた時には、電子体の書籍を確認し読後感の記載を求められたこともあった。再整備し公開に向けて努力するつもりだ。理由は、他人の読後感を確認していながら自分のを公開しないことはイーブンではない、と感じているからである。また何らかの形で自分の読後感を参考にしてもらう機会があればと思うからである。
読後感を付け加えているデータベースとは別に、以下のデータベースを作成し利用・廃棄方法などを検討しようと思っている。作成については書籍に印刷されているISBNのバーコードを読み取ればいいので作業が楽だった。
その後母親の介護に関わって情報を得るために、以下のサイトの会員になった。
いろんな悩みがあり参考になったものの、あえて自分の悩みを相談することもなかった。当時はケアーマネージャーからの情報などに加え、以下の書籍などを読んでいる。
_タイトル | 著者 | 出版日_発売日_ | 読了日 |
---|---|---|---|
朗朗介護 | 米沢富美子 | 2011-03-18 | 2011-07-31 |
介護と建築のプロが考えた「生活リハビリ」住宅―バリアフリーは間違っている | 三好 春樹, 吉真 孝司 | 2005-05 | 2011-10-09 |
訪問医が見た男の介護・女の介護~夫婦の老後は「語らい」が決める | 苛原 実 | 2010-01-07 | 2013-01-27 |
男も出番! 介護が変わる (春秋暮らしのライブラリー) | 羽成 幸子 | 2012-07-12 | 2013-02-23 |
親を寝たきりにさせない介護術 (経営者新書) | 腰塚 裕 | 2012-12-19 | 2013-08-21 |
工学部ヒラノ名誉教授の告白 エンジニアが「物書き」になったワケ | 今野浩 | 2013-09-24 | 2013-12-10 |
父は、特攻を命じた兵士だった。――人間爆弾「桜花」とともに | 小林 照幸 | 2010-07-22 | 2014-04-08 |
迫りくる「息子介護」の時代 28人の現場から (光文社新書) | 平山 亮 | 2014-02-18 | 2014-05-17 |
40代から備える親の介護&自分の介護 | 横井 孝治 | 2013-10-01 | 2014-07-03 |
団塊と介護 「介護受難の時代」にどう備えるか? (介護ライブラリー) | 大田 仁史 | 2011-05-21 | 2014-09-06 |
猿橋勝子という生き方 (岩波科学ライブラリー) | 米沢 富美子 | 2009-04-07 | 2015-08-26 |
介護うつ | 清水 良子 | 2009-11-16 | 2015-09-20 |
終の棲み家に翔べない理由 | 俵 萠子 | 2009-07 | 2015-09-23 |
1500万人の働き手が消える2040年問題--労働力減少と財政破綻で日本は崩壊する | 野口 悠紀雄 | 2015-03-06 | 2015-11-15 |
工学部ヒラノ教授の介護日誌 | 今野浩 | 2016-02-26 | 2016-06-17 |
母と子は必ず、わかり合える 遠距離介護5年間の真実 (講談社+α新書) | 舛添 要一 | 2014-06-20 | 2016-06-22 |
自宅で親を看取る 肺がんの母は一服くゆらせ旅立った | 小池 百合子 | 2014-09-18 | 2016-07-21 |
おひとりさまの最期 | 上野千鶴子 | 2015-11-06 | 2016-07-25 |
誰もやらないのなら 医者の私がやります ~板橋区役所前診療所の物語~ | 島田 潔, 鈴木 陽一, 藤井 秀樹 | 2016-05-26 | 2016-07-26 |
シルバー民主主義 - 高齢者優遇をどう克服するか (中公新書) | 八代 尚宏 | 2016-05-18 | 2016-08-09 |
月になったナミばあちゃん―「旅立ち」はふるさとでわが家で (いのちつぐ「みとりびと」) | 國森康弘 | 2012-01-20 | 2016-08-17 |
人間にとって成熟とは何か (幻冬舎新書) | 曽野 綾子 | 2013-07-28 | 2016-10-08 |
もう限界!親の介護と実家の片づけ | 高室成幸 | 2015-09-02 | 2016-10-18 |
結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書) | 筒井 淳也 | 2016-06-16 | 2016-10-21 |
「平穏死」という親孝行 ~親を幸せに看取るために子どもがすべき27のこと~ | 長尾和宏 | 2013-02-25 | 2016-11-04 |
生活支援の場のターミナルケア 介護施設で死ぬということ (介護ライブラリー) | 高口 光子 | 2016-11-11 | 2017-04-29 |
老いたる母と、戦いすんで日が暮れて―尊厳ある介護を求めて | 小室 加代子 | 2004-09 | 2017-09-04 |
自宅で親を看取る知恵 息子による介護実践の記録 | 山本 勝美 | 2010-02-19 | 2017-09-04 |
日本の人事を科学する 因果推論に基づくデータ活用 | 大湾 秀雄 | 2017-06-15 | 2017-11-04 |
大往生したけりゃ医療とかかわるな【介護編】 2025年問題の解決をめざして (幻冬舎新書) | 中村 仁一 | 2017-03-30 | 2017-11-12 |
親には一人暮らしをさせなさい | 三村 麻子 | 2015-12-16 | 2017-11-15 |
健康寿命を延ばす運動の科学―筋肉をきたえて健やかに生きる | 宮下 充正 | 2014-06-15 | 2017-11-30 |
健康診断という「病」 (日経プレミアシリーズ) | 亀田 高志 | 2017-11-10 | 2018-03-31 |
母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記 | 松浦 晋也 | 2017-08-03 | 2018-06-23 |
小屋を燃す | 南木 佳士 | 2018-03-29 | 2018-07-01 |
退職し母親と向き合う時間が長くなると、自分の介護体験も整理しておきたいと考えるようになった。介護に兄妹で関わっていたこともあり日々の記録をメモとして共有していこうと努力したこともあるが数冊のメモをのこしたものの継続は出来なかった。
あるとき母親の介護施設で介護家族の集まりがあった。ある介護者との雑談で、以下のような愚痴を聞いた。
彼女は義母の介護を行っている。介護施設に実際に訪問しているのはいつも彼女、彼女から情報を聞いて必要な写真を撮るように指示するのは夫。夫はその資料を基に自分の兄弟向けに家族新聞を時々発行し、兄弟が来ると一緒に施設を訪れる。兄弟は夫がよく面倒を見てくれて助かっていると彼女に告げて帰っていくそうだ。
彼女の話を鵜呑みにしていいのかはともかく、こちらも介護状況などを関係者で共有しようと考え、今までの経過を含め通信誌を作成した。平成27(2015)年7月16日(母親の介護施設に暮らすようになってほぼ2年弱)第1号発行、平成28(2016)年5月28日第2号、平成29(2017)年3月23日第3号を発行の後、平成29(2017)年5月(母親の介護施設に暮らすようになってほぼ4年目弱)に看取りを迎えた。その後整理を含め平成30(2018)年3月23日第4号発行を発行した。
以下で示されるように、介護老人福祉施設の入所者の平均在所期間は約4年だそうだ。母親はちょうど平均的な入所期間だったと思われる。施設に母親を訪問していた4年間入れ替わりの人たちはむしろ短期で少ないものの、長くいる人は限定的な気がした。被介護者の入所期間の平均値に加えて中間値などが知りたいところだ。
母親の介護が終了したのが2017年初夏、当時気づかなかったもののこのサイトには日記があることにあらためて気づいた。日記機能を活用し主介護者が日記をつけ、コメント機能を利用し従介護者が日記に気づいた点を加えていくなど情報共有を進めておけば整理するうえで参考になり、また介護者間の情報の非対称性の緩和に役立つものと考える。また自分なりの悩みなどを公開することによって、共感を得る・共感を与えることも多いかと感じている。これも以下の利用体験によってSNS機能についての理解が深まった成果だと思っています。
実際以下のヤマレコによってSNS活用の面白さを実感した。
ここでは以下のような自己紹介を行っています。
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GPSの活用法を検討していたらヤマレコに出会いました。おりしも体力維持を含め、山に行く頻度を増やそうと思っていたので、ハイキング記録などを掲載しはじめました。
GPS購入後4年・ヤマレコへの初めての投稿後2年を経ようとする2018年夏、遅ればせながら初期目標GPS活用の有効性なども実感できてきました。またいろんな方々の記録なども参考にしてきました。
山に行くたびに新鮮な発見があるので、これからも適宜記録等を更新していきたいと思っています。だんだん年齢とともにそれなりの行動になっていく経過なども併せて楽しみたいと思っています。
よろしくお願いします
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2016年の秋に初めて利用、その後記録や計画の検討に利用しGPSの活用も含め便利さを実感した。2018年の年賀状の一部にはヤマレコで地図上に赤線で表示される僕の踏破記録ルートのページアドレスのQRコードを印刷した。スマホを利用するようになりアドレスを直接記載するよりもQRコード読み取りがはるかに有効がと理解するようになっていた。ヤマレコに日記には以下を記載した。
自分の行動を蓄積するとともに他の人のルートを参考にできるサイトとして活用してきたが、SNSとして記録や計画情報の共有化の有効性は、一緒に山に行ったことのある友人がヤマレコ会員になった2018年8月初旬になって初めて体験した。
同様のサイトとして以下がある。確認すると最初にこのサイトを利用したのか16/05/12, 16/06/02-16/06/03, 16/06/19-16/06/20の3件が不完全ながらも入力されている。いつの間にかヤマレコの方に移って行っていたようだ。
山と自然がわかる! 登山のポータルサイト Yamakei Online
このほか、職場の友人に勧められて、TwitterやFacebookにもアカウントを持ったがほとんど利用していない。Twitterが便利だと実感したのは、何も情報の無い中高速道路が混んでおり、検索をかけると事故現場からの情報に直接アクセスできたこと、Facebookで驚いたことは、癌治療中の友人が新車を購入し喜んで運転感などを報告していた直後に、奥さんから葬儀などの連絡を受けたことだった。逆に相手が適宜発信することを前提に気になる人の近況を確認できることは有効なのではないかと感じた。今後勤務先などの移動が日常化する時代が来ればさらに有効かと思った。しかしながら毎日平凡な日々を送っている現状では利用していない。Lineについては、最近はメール代わりに利用している。必要に応じて音声・動画などに切り替えることが出来るのも便利だ。
SNSの魅力については、特定の興味のある情報を発信・受信する機能があるが、利用する方法としてフロー型とストック型としてを認識しておくべきかもしれない。もちろん過去の情報を検索する・時系列で確認するなどの作業は可能であるが、たとえば先ほどのヤマレコで期待していることは、同じルートを辿ったことがあるか、その場合踏破する時間にどのような変化があるのかなどを期待している。すなわち個人的にはストック型としての魅力である。一方フロー型としてTwitterやFacebookがあげられる。適宜TwitterやFacebookでUpToDateの情報を発信し、きちんとした説明はブログやホームページなどに残しておくことが有効かもしれない。
これからブログなどの利用・活用について更に検討していきたい。
ふとした行動が興味を開きさらに世界を広くする
ふとした行動が自分の興味を刺激し、さらに興味が広がった事例を解説します。
乗馬に興味を持ったことで、モンゴルとその歴史、ソ連・中国・モンゴルの関係、中国の少数民族問題などに具体的に目を開かされた。以下
2016年1月11日66歳の誕生日の直前、たまたまふと見かけた乗馬クラブの体験乗馬教室に参加した。時間つぶしに体験してみようと思ったにすぎない。たった45分の実体験だったが、終了後身体が軽くなった気がした。
従来から脊椎管狭窄症・坐骨神経痛などの気があり、一時は「間欠性跛行」の症状に悩んだこともある。当時脊髄のX線写真からは鮮明に骨すべり症の状況も確認できた。身体が軽くなったのは体幹に刺激を与え、緊張がほぐれたたことが遠因かもしれない。
友人に乗馬について話したら、貴族のスポーツで興味深いがそれなりの金がかかると言われた。とにかく乗馬に親しむことを前提として、とりあえず書籍などで情報を収集するとともに、近隣の乗馬クラブなども訪問した。従来から読書記録をつけていたので、乗馬を含んでいる書籍タイトルを確認してみると、以下の様だった。全て読了日は乗馬体験以降であるので、積極的に読んだのだろう。
タイトル | 著者 | 出版日_発売日_ | 読了日 |
---|---|---|---|
乗馬トレッキングに行こうっ―初心者による超初心者のための乗馬読本 | 布襟田 円 | 2006-01 | 2016-02-17 |
乗馬はじめました。: 乗馬クラブの選び方・通い方からライセンスの取り方までがよくわかる | 平島 文江 | 2013-09-13 | 2016-02-24 |
乗馬をはじめよう―16POINT 出会いから乗馬まで | 1991-10 | 2018-05-07 | |
乗馬のためのフィットネスプログラム―74のエクササイズと18の準備運動 | Dianna Robin Dennis, John J.McCully, Paul M.Juris | 2017-12-18 | 2018-05-18 |
読みすすめて初めて乗馬は馬の調教を前提とし、調教には古くからの歴史があることを 認識した。自分が参加した乗馬クラブは、英国式(English)と称されるもので、馬場馬術・障害飛越などを指導目標にしているようだった。もちろん華麗なスタイルで障害物を越えることもいいが、西部劇のように馬と共に行動し焚き火の横で寝入ってしまうような様式にもあこがれた。またモンゴルには馬を伴った独自の草原生活と文化があることも再確認した。
2016年7月7日にカウボーイ式(American)の乗馬トレッキングを行っているクラブで、指導者と共に2時間ほどの林間トレッキングを楽しんだ。終了後、指導者の馬を中心にした世界観を聞いた。彼の話で印象に残ったことは日本の馬の調教文化は敗戦時に陸軍が資料を燃やしほとんど潰えてしまったということだ。
特定のクラブ会員になって日常的に乗馬に親しみたいという気持ちはあったが、逆にクラブに固定されるためクラブの雰囲気・アクセスのしやすさなど事前に十分な検討が必要だった。一方、入会したクラブに固定されずいろいろなクラブを訪問し、オーナーの世界観などを聴くことも楽しいと思い始めた。
2017年3月28日に、流鏑馬技術などの普及とともに木曽馬の積極的な維持に努めているというクラブで3時間のトレッキングを行った。まだ残雪の残る時期で、馬の蹄の裏側に詰まった雪が突然剥がれ姿勢を崩す、木から落ちてくる雪の音に驚いて騒ぐなど、さまざまな場面で馬の制御技術の未熟さを再確認した。
これような体験・読書なども含めて、またハイキングや散歩時などによく見かけていた「馬頭観音」にも、身近に馬がいた最近までの生活感を感じ始めてきた。併せてチンギスカン以来の伝統で今でも身近に馬のいる生活を送っているモンゴル高原での乗馬に興味を持ち始め、とりあえずパックツアーなども確認し始めた。
突然以下のツアーが目に入り、6月3日に渋谷・オリンピックセンターでの乗馬旅行説明会に参加した。
奔流中国~モンゴル・シルクロードを「馬」で旅するキャラバンの旅~ -
実はこの時モンゴルにはなんとなくあこがれていたものの、内モンゴルと外モンゴルの違いも具体的には認識していなかった。とにかく乗馬に特化したツアーに参加することが目的だった。このツアーでは参加者が馬で草原上の集団行動を行うようだ。大学生を顧客の大きなターゲットとし、旅費を安価にする意味でも大阪・上海間の往復フェリー利用、上海と内モンゴルの州都・呼和浩特間の往復は往路寝台列車・帰路新幹線と寝台車、呼和浩特からはバスと馬の行動で、一般のホテル利用の宿泊は呼和浩特での一泊のみであった。大阪港発8月4日着8月17日の日程で参加した。
内モンゴル・蒙古の呼和浩特は漢民族がほとんどで、周辺の草原にも井戸を中心にした灌漑網が整備されつつあり、漢民族は草原を耕地に替え農耕を進め、馬などを自由に放牧できる草原は減少しつつあるように感じた。このため走り抜けることのできる草原もしばしば牧場として立ち入りが禁じられているようだ。ツアーは大草原の乗馬教室という名称で、実際最後には草原を1日で50㎞程度の距離走り抜けることが出来た。
モンゴルでは去勢された馬を利用し、群れ行動としての従順な性格を利用している。リーダーについていけばいいという意味で単純な行動であった。行き帰りに訪れた呼和浩特の駅の警備の厳重さに驚いたが、中国の少数民族の問題はよく話題に上るチベット・ウイグル自治区のみならずモンゴル自治区でも例外ではない様だった。
このツアーへの参加目的のひとつは、自分の行動ルートを特に国外でGPSで確認しようとするもので、実際毎日の行動距離をGPSで実感できた。
参加した大学生など若い人たちも、僕のような「高齢者が馬での集団行動に一緒に付いてきているのを見ると自分も頑張ろうという気持ちを再確認した」といわれ、僕と同世代の自分の父親の話など行動中の共感を増幅させた感がある。来年にはこのツアーの一環である、グレートトラバースと称するツアーに参加しさらに進化させたいと決心していた。
「モンゴル」というタイトルに含まれる読書記録を確認すると、帰国した2017年8月17日以降に、過去の日本軍と関連する事項を含めかなり興味を惹かれたようだ。現代中国のなかでチベット民族などとの確執などに接することも多く、逆にモンゴル自治区は少数民族としては中国の優等生であると感じていたためか、初めて接する情報も多かった。
タイトル | 著者 | 出版日_発売日_ | 読了日 |
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回想のモンゴル (中公文庫) | 梅棹 忠夫 | 2011-08-23 | 2017-06-02 |
ミラクル・ジャーニー わが子を癒したモンゴル馬上の旅 | ルパート アイザックソン, Rupert Isaacson | 2010-04-09 | 2017-06-28 |
オーロラを見に行こう!―アラスカ/ペルー/チベット/内モンゴルの旅 | 岩井 律子 | 2003-05 | 2017-07-21 |
内モンゴルの草原日記 | 和田 正信 | 1999-07-01 | 2017-07-21 |
内モンゴルを知るための60章 (エリア・スタディーズ) | ボルジギン ブレンサイン | 2015-08-01 | 2017-08-20 |
人類学者は草原に育つ: 変貌するモンゴルとともに (フィールドワーク選書) | 小長谷 有紀 | 2014-05-26 | 2017-10-01 |
日本陸軍とモンゴル - 興安軍官学校の知られざる戦い (中公新書) | 楊 海英 | 2015-11-21 | 2017-10-07 |
北京と内モンゴル、そして日本――文化大革命を生き抜いた回族少女の青春記 | 金佩華 | 2014-03-24 | 2017-10-07 |
チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史 | 楊 海英 | 2014-11-13 | 2017-10-24 |
モンゴルの二十世紀―社会主義を生きた人びとの証言 (中公叢書) | 小長谷 有紀 | 2004-08-01 | 2017-10-30 |
中国とモンゴルのはざまで――ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢 (岩波現代全書) | 楊 海英 | 2013-11-20 | 2017-11-04 |
墓標なき草原(上) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 | 楊 海英 | 2009-12-18 | 2017-11-06 |
墓標なき草原(下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 | 楊 海英 | 2009-12-18 | 2017-11-27 |
モンゴルに関連し、既に鬼籍となった職業軍人の父親が、「ノモンハン事件」が初めての戦争参加体験であったことは聞き覚えていた。また帝国陸軍が強力なロシア軍の前に歯が立たなかった初めての悲惨な戦いであり、司馬遼太郎が明治の日本が最終的に太平洋戦争に突き進んだカギがノモンハンにあるとして調べていたことなども聞き及んでいた。
帰国した2017年8月17日以降あらためて興味を持った。以下が「ノモンハン」というタイトルに含まれる読書記録
タイトル | 著者 | 出版日_発売日_ | 読了日 |
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はじめてのノモンハン事件 (PHP新書) | 森山 康平 | 2012-01-14 | 2016-01-05 |
ノモンハンとインパール―地獄から帰って来た兵士 (無名戦士の記録シリーズ) | 辻 密男 | 1988-01 | 2016-04-05 |
遙かなるノモンハン | 星 亮一 | 2004-11-01 | 2017-12-11 |
ノモンハン秘史 新書版 | 辻 政信 | 2016-12-02 | 2017-12-17 |
ノモンハン 隠された「戦争」 (NHKスペシャルセレクション) | 鎌倉 英也 | 2001-03 | 2018-06-05 |
茫漠の曠野 ノモンハン | 松本草平 | 2017-08-15 | 2018-07-29 |
改めて「ノモンハン」そして「インパール」に参戦した父親の生前の記憶を聞いておけなかったことが悔やまれた。もちろん何も話さないかもしれないが、以下の書籍の話題に引き出し方に感動した。
生きて帰ってきた男: ある日本兵の戦争と戦後 - 小熊英二 - Google ブックス
以下のテレビ番組も興味深く確認した。
またタイトルに「モンゴル」や「ノモンハン」が含まれる読書記録以外でも、モンゴル・ノモンハン・乗馬などに関連した読書記録情報があるが、読了時のメモから確認してみた。
タイトル | 著者 | 出版日_発売日_ | 読了日 |
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137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史 | クリストファー ロイド | 2012-09-01 | 2013/11/07 |
あるきにすとの法則―至福の歩き究極の歩き | 辻本 公一 | 2006-12 | 2013-12-06 |
旧日本陸海軍の生態学 - 組織・戦闘・事件 (中公選書) | 秦 郁彦 | 2014-10-09 | 2015-02-15 |
精神科医が教える 心が折れない楽しいひとり老後 (晋遊舎新書S02) | 保坂 隆 | 2012-03-17 | 2016-01-13 |
入門ガイド 楽しい野外騎乗 | 山口 佳男 | 1995-07 | 2016-03-03 |
グラニー・ギア 私の自転車物語 | 土屋 朋子 | 1996-10 | 2016-08-17 |
フィールドワーク最前線―見る・聞く・歩く | 山田 勇 | 1996-10 | 2017-07-29 |
人民服を着た青年海外協力隊員―率先垂範、中国トップマラソンランナーまで育て上げた杉本コーチの実記録 | 小松 征司 | 2001-03 | 2018-03-22 |
火の賜物―ヒトは料理で進化した | リチャード・ランガム | 2010-03-26 | 2018-04-06 |
例えば「137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史」の読書メモの一部には、「モンゴル軍は兵士も家族も行動を共にし集団となって移動し故郷に戻る必要はなかった。アレクサンドル大王の遠征との違いである」とある。
また「火の賜物―ヒトは料理で進化した」では「13世紀のモンゴル人の戦士は10日間一度も日をおこさずに馬に乗り続けた。食べるものは乗った馬の血管を刺して得る生き血だった(マルコポーロ)。しかし緊急事態でないと血の食事をとるのは嫌いだった。」とあった。
乗馬から派生した問題意識は、読書などを通してさらに深まった気がした。
今年も以下のツアーに参加しようと考えていた。日程は8/11-8/24(大阪港発着)である。個人的な都合と若干の不安感からとりあえず断念することにした。
以下のツアーも確認できた。「2018年8.9月の回を募集中です。」ということで、当面2018年8月18(土)-24(金)を募集中だ。企画者は僕の友人の友達で、会ったこともあると思う。前回は内モンゴルだったので今回は外モンゴルという選択肢もあるが、8月下旬から9月当初にかけて用事を入れたため煩わしい気もしている。
最近読書記録もつけるようにしたこともあり、自分の最近の興味の変遷などが再確認できた。
以下は、2018年5月15日に秩父での乗馬体験です。
LED:リモコンの作動確認
リモコンの作動確認
新しく購入したLEDシーリングライトのリモコンが作動しない様だったので、クレーム処理、新規リモコンが届き作動確認した。購入経過を含めてメモとして残しておくこととした。
自宅の照明・シーリングライトを蛍光灯からLEDに代えることにした。
従来のシーリングライトは以下の4台を利用した。
●Panosonic*3:HFA7625 85W/6-10畳(27,562‐62,640円), 直径約66×高さ約8.0
蛍光灯(電球色)85W 6~10畳 ソフトターン方式 カチットF 85形ツインパルックプレミア蛍光灯1灯(電球色) 幅φ658・高98・重3.1kg 高拡散クリーンアクリルカバー乳白・模様入り 木製(グレイッシュブラウン仕上) ダークシルバー飾り 低誘虫UVカット仕様、壁スイッチ切替(全灯→段調光→LED)、調光用リモコン送信器別売:蛍100%~10%・LED調光可能 消費効率107.8lm/W(7980lm・74W) ランプ:FHD85EL/H、光色変更品番 (光)HFA7625N(昼白色) ツインPa プルレスR 明るさフリー10
●Panosonic*1:HAA7100KC(34形+20形)丸形スリム蛍光灯(3波長形昼白色)(高出力点灯48W+28W)、畳数:6~8畳、幅φ600・高98・重2.3kg, 壁スイッチ切替(全灯→段調光→豆球)/ランプ:FHC34ENW FHC20ENW、高拡散クリーンアクリルカバー(乳白)、低誘虫UVカット仕様、全光束:6430 lm、省エネ法基準達成率:113、消費電力:70 W、消費効率:91.9 lm/W
とりあえず試験的に高性能・安価な製品を選択してみた。
●ビームテック :商品コードCL-YD12CD-Ring5年保証・12畳 調光調色 LEDシーリングライト・ウッドフレーム当店通常価格 7,027円 (税込 7,589 円)・直径約45×高さ約9.3・定格電圧(周波数):AC100V (50/60Hz)消費電力(最大):約54W・(最小):約5.5W、待機電力:約0.2W・色温度:電球色↔昼白色、器具光束:電球色↔昼白色 (最大点灯時5,800lm)連続調光:LED(100%~約10% 13段階調光)、連続調色:LED(電球色↔昼白色 13段階調色)、常夜灯:2段階調光タイマー:おやすみタイマー(10分、30分、60分)、演色性:Ra83以上、重量:1.4kg, 材質:ポリプロピレン、鋼板、材質:PC(木目調プリント)、5年間製品保証、定格寿命40,000時間以上
なお調色・調光については以下の意見があった。
調色などの機能を備えた製品はとても高価になっています。調色などの高機能は要らないとして簡単なシステムで安価になれば採用価値は高まります。無駄に明るい場所は、調光システムで適正な明るさに。調光システムを導入すると消費電力が一段と下がり費用対効果の回収も早まります。副産物として、寿命も延びます。
1台購入することとし、ネットで発注した。経過は、
2018年7月23日(月)発注、当日ゆうパック発送、25日(水)受領。
受領後早速取りつけたが、リモコンによる作動が確認できない。
リモコンの発信についてはデジカメで確認できることを思い出し、とりあえず他のリモコンを含めて準備した。写真左から、今回対象のリモコン、別のシーリングライト用リモコン、テレビリモコン。
iphoneを利用し3つのリモコンの発信状況をカメラを通して比べてみたが、はっきりと確認できない。以前しっかりと確認できた経験があるので、デジカメで再度確認した。他のリモコンの発信状況はよく確認できたが、明らかに受領したリモコンからは発信されていないことがわかった。発信時の写真を撮るより点滅する動画の方が判りやすいと考え、各動画を含めて不具合を26日(木)に連絡しすると早速代替品を発送するとの回答があった。経過は
2018年7月26日(木)連絡、同日ゆうパック発送、29日(日)受領。
受領後、新たなリモコンの正常作動を確認した。あらためてiphoneでは確認できなかったことが気になる。iphoneについて調べると、インカメラのみ有効だそうだ。kosukety.org
一般のデジカメとiPhoneでは確認できる波長が異なっていることは初めて知った。
せっかくなので新しいリモコンの作動状況も含め、動画を取り纏め確認できるようにした。
動画の編集と説明文の挿入には、iPhoneを利用し以下のアプリ(無料)を利用した。わかりやすいアプリで、お勧めだ。
「俺の字幕動画 - 動画に字幕を入れよう!」をApp Storeで
最終的に以下のような一本の動画に取りまとめた。
最初の2秒間は作動しないリモコン、次は現在利用中のシーリングライトのリモコン、テレビリモコン、最後は新たに送られてきたリモコン。作動状況がよく確認できた。
今回いろいろ戸惑うこともあったが、メモとして残し、これからの活用をさらに洗練していきたい。
時代の目標・日本:敗戦後の国際社会への復帰
日本の高度成長期、そしてバブル崩壊に至った後、日本では時代の目標が見えにくくなっている気がする。逆に過去に時代の目標を大きく意識した・せざるを得なかった時代は明治でしょう。
江戸から明治時代に至る過程での時代の目標は、開国後の国際社会で覇権国家の一員として認められるということでしょう。
江戸時代鎖国政策を続けてきた日本は、開国を迫られた。開国にあわせて国内体制を見直し、英米を見習って富国強兵に努め、新たなエネルギーなどを国内に導入したのが明治時代といえるでしょう。ちなみに司馬遼太郎は、江戸時代から明治にかけて日本が変わっていく時代を小説で紹介しました。
明治時代から整備していった支配体制を敗戦によって失いました。
敗戦までの経過は以下のようなものかと思います。
1945年3月10日:東京大空襲/一夜で東京の40%が焼失/約10万人が死亡
1945年7月:アメリカ・イギリス・ソ連の首脳は、ポツダム会談を開く。
1945年8月: 広島(6日)と長崎(9日)に原爆が落とされる。ポツダム宣言を受諾して降伏(14日)、天皇のラジオ放送で終戦を発表(15日=終戦記念日)
その後国際社会に再び認められ受け入れられることをいろいろな側面で努力したわけです。国際社会復帰の過程で日本人は徐々に自信を回復していきました。個人にとっても、その過程の一翼を担う・参画することが分かりやすい目標となります。その過程の一端はNHKでプロジェクトXとして放映され様々な人々が熱狂したものです。
ここで南極観測を取り上げてみましょう。当然南極観測も、ある意味時代の目標の一端として開始されました。経過を以下に記載しましょう。(南極観測・世界の共同観測)
以下直接南極観測とかかわりのある事項については赤字で記載します。
1949年:湯川秀樹日本人として初めてノーベル賞を受賞/1935年に理論的に予言した中間子の存在が、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより実証されたことによって、理論の正しさが証明された。
1951年:サンフランシスコ講和条約署名(9月8日)
1952年:日本国際連合に加盟申請、冷戦の最中で、ソ連など社会主義諸国の反対
1955年:国際地球観測年・日本も南極観測参加の意思表明、敗戦直後ということから他国の反発があり、「資格なし」とされた。白瀬隊の実績を挙げて「資格あり」と反論、最終日になんとか認められた。
1956年:永田武隊長によって編成された南極地域観測予備隊(隊員53名)がその創始、のちに第1次南極地域観測隊と呼称が変更された。当初は2次で終了する予定であったがその後延長された
1956年:日本隊マナスル初登頂(5月9日)/この成功は戦後の日本登山界に画期的な影響があり、空前絶後の登山ブームを巻き起こすなど社会現象になった。
1956年:日ソ共同宣言/ソ連との国交回復(10月)、国際連合に加盟(12月18日)の総会における全会一致の承認でもって80番目の加盟国として国際連合加盟
1959年:12か国による南極条約に署名。
上記の白瀬隊は、明治時代に日本人として初めて南極観測を行った人物:白瀬矗が率いた南極探検隊です。くしくも同時期に、ノルウェー・アムンゼン、イギリス・スコットが南極点を目指していました。白瀬矗は明治45年(1912年)1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名、スコットが南極点に到達したのは、ちょうどこの翌日です。同地は上陸、探検に不向きであったため、再び開南丸でロス棚氷・クジラ湾に向かうことになりました。クジラ湾内では、南極点初到達から帰還するロアール・アムンセンの探検隊を収容するために来航していたフラム号と遭遇、限られた形ながら接触している(WikiPediaによる)。