父親の戦争体験

父の具体的な軍歴を示す資料が残っていた。結構解読が面倒だったので見るだけだった。しかし2019年『文藝春秋』(6月号)に村上春樹が父親との確執を彼の戦争体験を絡めて記載していた。

村上春樹が父親との確執を告白、いつか来る死を意識か|NEWSポストセブン

父の軍歴を改めて整理し理解することが必要であることを自覚し、資料を確認し電子的に記述し確認することにした。

この証明書は以下のような方法で入手できるようだ。

軍歴証明書・兵籍簿の取り方

 

軍歴証明書を、年月日(西暦)・当時の年齢・軍歴と整理した。父親の生きてきた環境・背景を知るためには、元号表示を西暦に改めたほうが便利である。

実際の太平洋戦争については、具体的にはあまり考えなかったことがよく分かった。 父が初めて戦場に立ったのは20.5歳の時であろう。

1939/01/01・20.5歳:軍歴【泰安鎮着同日第二中隊編入

南京事件は既に終わった時期である。

南京事件【1937(昭和12)年12月13日の南京陥落の翌日から6週間の間に、女・子供を含む南京市民や無抵抗な中国軍兵士の捕虜(国民党、現台湾政府軍)を含む約30万人が殺害されたとされる事件】

その後、以下のように21.3歳で国内に向かっている。ノモンハン事件は、国内に向かう前・現地滞在期間中に終了している。父親が初めて戦場に出たのはノモンハン事件だったといっていたことに対応する。

1939/10/26・21.3歳:軍歴【久留米陸軍予備士官学校に分遣のため泰安鎮出発】

ノモンハン事件:【1939年5月から同年9月にかけて、満州国モンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと】

 国内教育機関である予備士官学校滞在も以下のように短い期間で終了、再び現地に戻っている。

1940/07/01・22歳:軍歴【集合教育のため久留米予備士官学校に入校中のところ卒業帰隊・見習士官を命じ曹長の階級に進む】
1940/07/15・22歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に転属】
1940/07/24・22.1歳:軍歴【宇品港出航】
1940/07/24・22.1歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務に従事す:戦地戦務加算(40/07/24 - 41/04/30)】
1940/07/27・22.1歳:軍歴【上海港上陸】

その後再び国内に徴収初年兵を迎えに行き、彼らと共に第15師団・祭部隊としてインパール作戦に関わっている。

1942/01/24・23.6歳:軍歴【南京出発:昭和十六年度徴集初年兵受領員として内地出発のため・上海港出航・揚子江通過】

1942/02/27・23.7歳:軍歴【京都出発:初年兵引率帰隊のため】

1943/04/06・24.8歳:軍歴【第十五師団編制着手】
1943/04/20・24.8歳:軍歴【補輜重兵第十五連隊付・編制完結】
1943/04/20・24.8歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す(43/04/20 - 43/09/17)】
1943/05/13・24.9歳:軍歴【移駐のため南京出発】
1943/05/14・24.9歳:軍歴【上海着・以後上海駐留】
1943/09/18・25.2歳:軍歴【緬甸(ビルマ)派遣のため上海(呉瀬?港)出発】

1944/01/02・25.5歳:軍歴【ウ号作戦(44/01/02 - 44/07/05)及び次期態勢移行のための作戦参加(44/07/06 - 44/09/12)】

 

インパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)【1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、現在では史上最悪の作戦と言われている】

【 高木俊朗著『憤死』(文春文庫 1988/06/10刊)を読む】との情報が以下にあったが、父はどのように感じていたのだろうか父が亡くなったのは1995年(平成7年)10月7日77歳である。

http://www.sky.sannet.ne.jp/ken-abe/rondan-2016-04.html


ビルマインパール作戦を行った牟田口廉也第十五軍軍司令官の下で、祭第15師団(師団長・山内正文中将)は、山険かつ熱帯ジャングルの苛酷な戦場で苦闘し、三師団の中で最も多い死傷者を出した。
しかし、その評価は「弱い師団」といわれたことである。なぜそう呼ばれたのか。残された山内師団長の日記をベースに、山内師団長を補佐した参謀長岡田菊三郎少将から取材して、その視点から、牟田口軍司令官の罵詈雑言の督戦命令に振り回された祭第十五師団将兵の戦いを描いた高木俊朗の「インパール」シリーズ第4作である。単行本は昭和44年(1969年)、戦後24年、ほぼ四半世紀を経て出版された。文庫本の出版は、昭和63年(1988年)、昭和の時代が終わりとなるほぼ半年前であった。 

以下が全ての軍歴である。整理に当たって、軍歴の経過を示す年月日(元号)では他の事件、当時の年齢と照合させにくいため、年月日(西暦)・当時の年齢・軍歴のように列挙・整理した。

1938/12/10・20.4歳:軍歴【現役兵として輜重兵第一連隊留守隊に入営】
1938/12/10・20.4歳:軍歴【【級等】輜重兵二等兵
1938/12/22・20.5歳:軍歴【満洲派遣要員として東京出発】
1938/12/24・20.5歳:軍歴【神戸着同日神戸港出航】
1938/12/29・20.5歳:軍歴【大連港上陸/同日関東州境通過】
1939/01/01・20.5歳:軍歴【泰安鎮着同日第二中隊編入
1939/05/01・20.8歳:軍歴【輜重兵科幹部候補生を命じ輜重兵一等兵階級を興う】
1939/07/01・21歳:軍歴【上等兵階級に進む】
1939/09/20・21.2歳:軍歴【甲種幹部候補生を命ず】
1939/10/26・21.3歳:軍歴【久留米陸軍予備士官学校に分遣のため泰安鎮出発】
1939/11/01・21.3歳:軍歴【輜重兵伍長階級に進む】
1940/04/29・21.8歳:軍歴【支那事変従軍記章授与】
1940/07/01・22歳:軍歴【集合教育のため久留米予備士官学校に入校中のところ卒業帰隊・見習士官を命じ曹長の階級に進む】
1940/07/15・22歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に転属】
1940/07/24・22.1歳:軍歴【宇品港出航】
1940/07/24・22.1歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務に従事す:戦地戦務加算(40/07/24 - 41/04/30)】
1940/07/27・22.1歳:軍歴【上海港上陸】
1940/07/28・22.1歳:軍歴【南京着】
1940/10/31・22.3歳:軍歴【甲種幹部候補生の修業期間を終了】
1940/11/01・22.3歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に臨時招集・輜重兵第十五連隊附(聯隊附開始】
1940/11/01・22.3歳:軍歴【漢水作戦参加(40/11/01-40/11/29)】
1940/11/01・22.3歳:軍歴【【級等】少尉】
1940/11/30・22.4歳:軍歴【漢口附近の警備(40/11/30 - 41/01/18)】
1941/01/19・22.6歳:軍歴【予南作戦参加(41/01/19 - 41/02/28)】
1941/03/01・22.7歳:軍歴【漢口附近警備及び南京帰還輸送(41/03/01 - 41/03/12)】
1941/03/13・22.7歳:軍歴【巣湖南方作戦参加(41/03/13 - 41/04/04)】
1941/05/01・22.8歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務・大東亜戦役支那方面勤務に従事す(41/05/01 - 43/04/30)】
1941/06/22・23歳:軍歴【軍令陸甲第十五号に依り編制改正】
1941/06/25・23歳:軍歴【編制完結・輜重兵第十五連隊付】
1941/09/25・23.2歳:軍歴【江浦作戦参加(41/09/25 - 41/10/04)】
1941/12/17・23.5歳:軍歴【皖浙作戦(多分安徽省浙江省方面の作戦か?もう少し小さい地名かも。調べればわかるね)参加(41/12/17 - 41/12/31)】
1942/01/24・23.6歳:軍歴【南京出発:昭和十六年度徴集初年兵受領員として内地出発のため・上海港出航・揚子江通過】
1942/01/27・23.6歳:軍歴【長崎上陸】
1942/01/28・23.6歳:軍歴【京都着】
1942/02/27・23.7歳:軍歴【京都出発:初年兵引率帰隊のため】
1942/02/28・23.7歳:軍歴【門司港出航】
1942/03/03・23.7歳:軍歴【揚子江通過】
1942/03/04・23.7歳:軍歴【南京港上陸・帰隊】
1942/8/20・24.1歳:軍歴【【級等】中尉】
1943/03/13・24.7歳:軍歴【軍令陸甲第二十二号に依り編制改正下令】
1943/04/06・24.8歳:軍歴【第十五師団編制着手】
1943/04/20・24.8歳:軍歴【補輜重兵第十五連隊付・編制完結】
1943/04/20・24.8歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す(43/04/20 - 43/09/17)】
1943/05/13・24.9歳:軍歴【移駐のため南京出発】
1943/05/14・24.9歳:軍歴【上海着・以後上海駐留】
1943/09/18・25.2歳:軍歴【緬甸(ビルマ)派遣のため上海(呉瀬?港)出発】
1943/09/30・25.2歳:軍歴【一等給下賜】
1943/10/02・25.3歳:軍歴【仏印西貢(サイゴンのこと。今のホーチミンシティ)上陸】
1943/10/06・25.3歳:軍歴【仏印西貢(サイゴンのこと。今のホーチミンシティ)発・メコン河口通過】
1943/10/06・25.3歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役泰国(タイ)方面勤務に従事す(43/10/06 - 44/01/01)】
1943/10/09・25.3歳:軍歴【盤谷(バンコク)着】
1943/12/13・25.5歳:軍歴【ランパーン着】
1943/12/19・25.5歳:軍歴【ランパーン出発】
1944/01/02・25.5歳:軍歴【緬甸ビルマ国境(カサイ)通過・ケントン着】
1944/01/02・25.5歳:軍歴【ウ号作戦(44/01/02 - 44/07/05)及び次期態勢移行のための作戦参加(44/07/06 - 44/09/12)】
1944/01/02・25.5歳:軍歴【輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役緬甸ビルマ方面勤務に従事す(44/01/02 - 45/08/06)】
1944/03/05・25.7歳:軍歴【ケントン出発】
1944/04/21・25.8歳:軍歴【印緬国境(フミネ)通過】
1944/07/16・26歳:軍歴【転進のため印緬国境(フミネ)通過】
1944/09/13・26.2歳:軍歴【磐作戦参加(44/09/13 - 45/01/16)】
1944/09/14・26.2歳:軍歴【緬甸ピンレグ着】
1944/12/05・26.4歳:軍歴【緬甸ピンレグ発・昭和19年軍令陸甲第一四〇号に依り編制改正下令】
1944/12/11・26.4歳:軍歴【編制着手】
1944/12/17・26.5歳:軍歴【編制完結・補輜重兵第十五連隊付】
1945/01/17・26.6歳:軍歴【イラワジ河畔の会戦並びにメークテーラ附近の会戦に参加(45/01/17 - 45/04/12)】
1945/04/13・26.8歳:軍歴【克作戦参加(45/04/13 - 45/05/30)】
1945/05/31・26.9歳:軍歴【後期克作戦参加(45/05/31 - 45/07/31)】
1945/08/07・27.1歳:軍歴【泰緬国境(ニーケ)通過】
1945/08/09・27.1歳:軍歴【泰国バンポン着】
1945/8/20・27.1歳:軍歴【【級等】大尉】
1946/05/07・27.9歳:軍歴【バンポン出発】
1946/05/14・27.9歳:軍歴【磐谷着】
1946/05/25・27.9歳:軍歴【磐谷(バンコク)出航】
・28歳:軍歴【浦賀上陸】
・28歳:軍歴【復員完結・予備役編入

軍歴を表形式で表示した。 

年月日 年_元号 対象者年齢 詳細
38/12/10 (土) S13 12 20.4 現役兵として輜重兵第一連隊留守隊に入営
38/12/10 (土) S13 12 20.4 【級等】輜重兵二等兵
38/12/22 (木) S13 12 20.5 満洲派遣要員として東京出発
38/12/24 (土) S13 12 20.5 神戸着同日神戸港出航
38/12/29 (木) S13 12 20.5 大連港上陸/同日関東州境通過
39/01/01 (日) S14 1 20.5 泰安鎮着同日第二中隊編入
39/05/01 (月) S14 5 20.8 輜重兵科幹部候補生を命じ輜重兵一等兵階級を興う
39/07/01 (土) S14 7 21.0 上等兵階級に進む
39/09/20 (水) S14 9 21.2 甲種幹部候補生を命ず
39/10/26 (木) S14 10 21.3 久留米陸軍予備士官学校に分遣のため泰安鎮出発
39/11/01 (水) S14 11 21.3 輜重兵伍長階級に進む
40/04/29 (月) S15 4 21.8 支那事変従軍記章授与
40/07/01 (月) S15 7 22.0 集合教育のため久留米予備士官学校に入校中のところ卒業帰隊・見習士官を命じ曹長の階級に進む
40/07/15 (月) S15 7 22.0 輜重兵第十五連隊に転属
40/07/24 (水) S15 7 22.1 宇品港出航
40/07/24 (水) S15 7 22.1 輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務に従事す:戦地戦務加算(40/07/24 - 41/04/30)
40/07/27 (土) S15 7 22.1 上海港上陸
40/07/28 (日) S15 7 22.1 南京着
40/10/31 (木) S15 10 22.3 甲種幹部候補生の修業期間を終了
40/11/01 (金) S15 11 22.3 輜重兵第十五連隊に臨時招集・輜重兵第十五連隊附(聯隊附の続きは、多分「被仰付」(おおせられるにつき))・南京付近の警備開始
40/11/01 (金) S15 11 22.3 漢水作戦参加(40/11/01-40/11/29)
40/11/01 (金) S15 11 22.3 【級等】少尉
40/11/30 (土) S15 11 22.4 漢口附近の警備(40/11/30 - 41/01/18)
41/01/19 (日) S16 1 22.6 予南作戦参加(41/01/19 - 41/02/28)
41/03/01 (土) S16 3 22.7 漢口附近警備及び南京帰還輸送(41/03/01 - 41/03/12)
41/03/13 (木) S16 3 22.7 巣湖南方作戦参加(41/03/13 - 41/04/04)
41/05/01 (木) S16 5 22.8 輜重兵第十五連隊に在りて支那事変勤務・大東亜戦役支那方面勤務に従事す(41/05/01 - 43/04/30)
41/06/22 (日) S16 6 23.0 軍令陸甲第十五号に依り編制改正
41/06/25 (水) S16 6 23.0 編制完結・輜重兵第十五連隊付
41/09/25 (木) S16 9 23.2 江浦作戦参加(41/09/25 - 41/10/04)
41/12/17 (水) S16 12 23.5 皖浙作戦(多分安徽省浙江省方面の作戦か?もう少し小さい地名かも。調べればわかるね)参加(41/12/17 - 41/12/31)
42/01/24 (土) S17 1 23.6 南京出発:昭和十六年度徴集初年兵受領員として内地出発のため・上海港出航・揚子江通過
42/01/27 (火) S17 1 23.6 長崎上陸
42/01/28 (水) S17 1 23.6 京都着
42/02/27 (金) S17 2 23.7 京都出発:初年兵引率帰隊のため
42/02/28 (土) S17 2 23.7 門司港出航
42/03/03 (火) S17 3 23.7 揚子江通過
42/03/04 (水) S17 3 23.7 南京港上陸・帰隊
42/08/20 (木) S17 8 24.1 【級等】中尉
43/03/13 (土) S18 3 24.7 軍令陸甲第二十二号に依り編制改正下令
43/04/06 (火) S18 4 24.8 第十五師団編制着手
43/04/20 (火) S18 4 24.8 補輜重兵第十五連隊付・編制完結
43/04/20 (火) S18 4 24.8 輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す(43/04/20 - 43/09/17)
43/05/13 (木) S18 5 24.9 移駐のため南京出発
43/05/14 (金) S18 5 24.9 上海着・以後上海駐留
43/09/18 (土) S18 9 25.2 緬甸(ビルマ)派遣のため上海(呉瀬?港)出発
43/09/30 (木) S18 9 25.2 一等給下賜
43/10/02 (土) S18 10 25.3 仏印西貢(サイゴンのこと。今のホーチミンシティ)上陸
43/10/06 (水) S18 10 25.3 仏印西貢(サイゴンのこと。今のホーチミンシティ)発・メコン河口通過
43/10/06 (水) S18 10 25.3 輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役泰国(タイ)方面勤務に従事す(43/10/06 - 44/01/01)
43/10/09 (土) S18 10 25.3 盤谷(バンコク)着
43/12/13 (月) S18 12 25.5 ランパーン着
43/12/19 (日) S18 12 25.5 ランパーン出発
44/01/02 (日) S19 1 25.5 緬甸ビルマ国境(カサイ)通過・ケントン着
44/01/02 (日) S19 1 25.5 ウ号作戦(44/01/02 - 44/07/05)及び次期態勢移行のための作戦参加(44/07/06 - 44/09/12)
44/01/02 (日) S20 1 25.5 輜重兵第十五連隊に在りて大東亜戦役緬甸ビルマ方面勤務に従事す(44/01/02 - 45/08/06)
44/03/05 (日) S19 3 25.7 ケントン出発
44/04/21 (金) S19 4 25.8 印緬国境(フミネ)通過
44/07/16 (日) S19 7 26.0 転進のため印緬国境(フミネ)通過
44/09/13 (水) S19 9 26.2 磐作戦参加(44/09/13 - 45/01/16)
44/09/14 (木) S19 9 26.2 緬甸ピンレグ着
44/12/05 (火) S19 12 26.4 緬甸ピンレグ発・昭和19年軍令陸甲第一四〇号に依り編制改正下令
44/12/11 (月) S19 12 26.4 編制着手
44/12/17 (日) S19 12 26.5 編制完結・補輜重兵第十五連隊付
45/01/17 (水) S20 1 26.6 イラワジ河畔の会戦並びにメークテーラ附近の会戦に参加(45/01/17 - 45/04/12)
45/04/13 (金) S20 4 26.8 克作戦参加(45/04/13 - 45/05/30)
45/05/31 (木) S20 5 26.9 後期克作戦参加(45/05/31 - 45/07/31)
45/08/07 (火) S20 8 27.1 泰緬国境(ニーケ)通過
45/08/09 (木) S20 8 27.1 泰国バンポン着
45/08/20 (月) S20 8 27.1 【級等】大尉
46/05/07 (火) S21 5 27.9 バンポン出発
46/05/14 (火) S21 5 27.9 磐谷着
46/05/25 (土) S21 5 27.9 磐谷(バンコク)出航
  S21 6 28.0 浦賀上陸
  S21 6 28.0 復員完結・予備役編入

 

以下が軍歴証明書である。氏名などの個人を特定できる部分には付箋を配置した。

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軍歴証明書

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軍歴証明書の続き

 

 

トイレ設備更新

トイレを更新した。周辺を整理してトイレ奥に行きやすくしたので、トイレ後の手洗いが楽になった気がする。以下にメモを残しておく。

品名:アメージュZAシャワートイレ(LIXIL DT-ZA282PM手洗付)・寸法:391W*754D*857H・消費電力:300W・便器洗浄方式:ネオボルテックス式壁排水・洗浄水量:大6.5L小3.8L

設置にあたっては、以下の2点を依頼した。

1. 正面収納棚扉の1cm程カットによる手洗いの干渉除去

2. タオル掛けの右側の壁入口側から左側の壁奥手洗い横への移動

左奥に進み手を洗いタオルで拭く一連の作業動線を纏めたのでわかりやすくなった。一方左奥まで床を覆うマットが欲しいところである。

手洗い時に便座蓋を開けたままだと干渉するので必然的に閉めることになる。便座温度維持に伴う節電には貢献する

トイレ更新日(請求書記載日:平成31年1月20日)請求金額172,800円(収納扉加工費20,000円を含む)

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空調設備の更新

従来空調設備として、霧ヶ峰MITSUBISHI(2004年MSZ-ZR40PS-W;暖房13-17畳・冷房11-17畳)を利用してきた。平成21年(2009年)に内装リフォームを行ったときに、旧来の設備を引き継いだものである。内装リフォームでは、旧来の居間・食堂・台所を一体化・窓側のリビングダイニング43m2(26畳)に改装したため、若干能力に不安があったが、結果的には問題がなかったため今回も同程度の能力として以下を選定した。購入後すでに15年が経過していたこともあり夏の暑い時期を迎える前に更新しておきたいとの考えもあった。

ダイキン 14畳向け 自動お掃除付き 冷暖房インバーターエアコン KuaL うるさら7 ホワイト ATR40WPE7-WS(冷房の目安:11~17畳/暖房の目安:11~14畳/冷房能力:4.0(0.5~5.3)kW/暖房能力:5.0(0.4~12.2)kW/低外気温暖房能力:9.1kW)

実際取り付けてみると、室内機・室外機ともに大きくなったことを実感した。実際仕様を確認すると以下のようであった。

室内機(W*H*D/Kg) 840*298*248/12 > 798*295*370/16.5

室外機(W*H*D/Kg) 800*550*285/41 > 850*729*320/49

設置年月日:2019年4月22日、更新費用246.000円

フィルター掃除機能による室内機の取り付け時にわかったこと:以下の写真はエアコン用200Vコンセントから下方向にひび割れが直線的に10cmほど伸びさらに8cmほど続いていた。その後水平な段差となって空調スリーブを含み32㎝程伸びていた。取り付け業者は地震の揺れでボードにひびが入っているのではないかと言っていた。とりあえずボンドを詰めて処置しているとのこと。

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対処方法:現状では右側は配管で固定・左側は2-3㎜特に上部が浮くような状況であることをして確認して経過観察とする

 

骨すべり症の確認とリハビリ体制

2010年当時、勤務先まで歩いていくとき間歇歩行に悩まされていた時期があった。間歇歩行の症状が顕著に表れ始めたのは、歩くことも含めて運動を制限せざるを得なかった2006年当時であった。2006年(平成18年)11月7日にX線画像を取った結果からは、第4腰椎が前方に滑っていることがわかった。その後徐々に散歩を増やしてどうにか普通に歩けるようになったが、さらに時間的に余裕があるときには通勤時の取り換えを省略し勤務先までのほぼ3kmの道のりを時々立ち止まることを繰り返しながら歩くことに努力した。2013年に体重が急に減少したが、この成果かもしれない。その後2014年6月で退職、勤務先に行く機会が無くなった一方、時間が自由になったこともあり様々な形でのリハビリテーションに努めたいと考えた。

旧来から野外活動が好きであったため、学生時代には気分転換・運動も兼ね、登山やカヌーの体験があった。また最初に勤務した当時自転車に興味を持ち、一日200km程度乗ったこともあった。この機会にとりあえずもう少し親しんでみようと考えた。

登山については、より一層の安全確認を充実させる意味で2014年8月にGPSを購入した。2016年10月からヤマレコに登山記録を掲載し、記録の充実が楽しみになった。

カヌーについては、2016年9月にカヌー教室に参加、かなり興味が惹かれたので翌2017年には通年参加を予定した。2回ほど参加したが、ある程度以上のレベルになると自分の体形に合った大きさ・運ぶ自動車などが欲しくなったのでとりあえず中止している。

自転車については、2016年3月末に、輪行しまなみ海道を自転車で走ってみた。久しぶりにパンク修理を体験した。その後、30km内外の短距離利用を重ねている。

新規に興味を惹かれたのは乗馬だ。2016年1月11日たまたま無料体験キャンペーンで乗馬を行い終了時には腰周辺が軽くなったように感じたものだった。とりあえず情報を収集してみた。馬の役割には長い歴史があり、現在残っている馬の文化は調教も含め地域によって異なっていることを理解した。体験した乗馬はいわゆるイングリッシュ・スタイルといわれるもので、単純に野外行動に惹かれていたこともあり、ウェスタン・スタイルの乗馬クラブを6月に訪れた。さらに翌1917年春には旧来の日本の馬術という意味で木曽馬の調教と流鏑馬教室を開いている乗馬クラブを訪問した。また夏には今でも馬が生活の一部になっている内モンゴルの2週間ツアーに参加した。アクセスしにくいのが欠点だ。

ヤマレコへの登山記録の掲載は2018年には42回(月平均3.3回)に達したが、とりあえず今年は月4回を目指してみたいと考えている。

参考のために、いままで記録していた体重の変化を確認してみよう。2013年に急に減少した体重が再び増加、一方従来の間歇歩行が2014年頃から見られなくなり坐骨神経痛も気にならなくなっていたが、2019年頃から登山開始時に右脚付け根に痛みを感じることが多くなった。間歇歩行からの回復は体重が軽くなったことが理由の一端かもしれない。

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BMIで適正体重を確認してみよう。BMIは、18.5未満(低体重)・18.5〜25(普通)・25以上(肥満)とされ、22が最も理想的とされている。以下は、身長と体重を同時に測定したときの値だ。最近徐々に肥満に向かっているのでもうちょっと下げることに努力したい。

 

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背骨が関係しているという意味で、2006年(平成18年)11月7日の背骨のX線画像を示した。第4腰椎が前方・左側に滑っていることがよくわかる。

2017年夏にモンゴル乗馬ツアーに参加した。6日目には速足時の馬の上で体を立てておくのが難しくなり、ついつい鞍の前を握ってしまった。その後の旅行中腹筋内部が疲労感が辛かった。帰国後整形外科に行ってロキソニンを貰った。X線を取ったら驚いていたが、まあ当然かとも感じている。背骨を支え続けるという意味でこれからも体幹を維持しなければならないのだろう。

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図書の整理

大学時代にはそれなりに多くの書籍を購入していた気がする。引っ越しをするたびに書籍も一緒に移動してきた。大学時代の4年間で4回下宿を移動した。その後同じ大学で大学院生となったためほとんどの時間を研究室で過ごすようになった。そのため下宿には寝るだけに帰ることがほとんどとなり、研究室近くに住むことにした。当時の下宿には風呂がなく夕食後に行く学生時代の銭湯は混雑していたが、時間の余裕を調整し研究室から直接行く銭湯は開店直後の空いている時間を選んだものだった。研究室を中心にした生活では、下宿は書籍置き場と寝るだけ、たまに簡単な夜食を作る程度だった。同じ実験室の先輩が小中高生を教えていた塾の一室に寝泊まりしていたが、彼の就職にため空いた部屋に住むことになった。塾ということで、自分の図書を書棚に並べて公開し開放することにした。

その後就職することになったが、ほとんどの図書はそのまま置いて移動した。就職後再び書籍が溜まっていくことになるが、約10年後に勤務先が実家近くになる。就職後に溜まった書籍は元の職場近くの妻の元と実家に分割されている。当時PCが個人が利用できるようになると図書の整理・在庫管理に利用した。整理してみると、文庫本などが複数冊重複していることが実感できた。実家でも必要な書籍を購入し続けたが、いつのことだろうか図書館が自宅から手軽に検索・借り出し予約することが可能になった。その後書籍を購入・蓄積していくことは少なくなった。

従来、自分で購入・読破・参照した書籍は書棚などに整理し必要に応じて取り出していた。そのため書棚を拡張する必要はあったが、読書記録として格段整理する必要性は乏しかった。また友人などの自宅に行くと、書棚に並んでいる本から個人の興味などを推測したものだった。一方図書館で借り出して読んだ書籍については、全く記録に残らないことになる。そこで読書記録をつけることにした。すでにインターネットの普及とともにクラウド上で個人の読書記録を整理する方も増えてきた。利用したのは、MediaMakerというサービスだったが、残念なことにサービスが昨年末で終了したため、とりあえず現在、記録を個人のPCに取り出した。

ここで取り出した記録を含めて最近の読書記録を整理してみよう。最初の記録は、読了日2005/11/22の「銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎」であった。

読破した年と冊数を確認すると、この15年で1000冊ほど読んだことになる。

 

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書籍などを参照して議論するときには、参照を明確にしその部分については敢えてコメントとして残すことにしたので、最初の頃の記録は連続していない・読んだ書籍を網羅していない可能性が大きい。

読了後コメントを書いていない書籍については、2009年から始まるこの頃から網羅的に記載した可能性が大きい。948冊数中コメントが無い冊数として18冊を確認した。したがって読了したものについてはほとんどコメントを残していることになる。

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コメントをどの程度記載しているかを確認するため、年毎のコメントの文字数を確認した。多い年には2万文字・400字詰原稿用紙50枚程度であろうか。

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年毎に読破した冊数が異なるので、年毎の平均文字数も確認した。

 

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一応個人のPC上にデータベース形式で保管しているので、うろ覚えの読書記憶もコメントなどを検索して辿れる場合もありそれなりに活用している。

一方出先などでの読んだ記憶の確認には不便なので、現在この記録を保管場所を探しているところです。時々図書館から一度借りた書籍を再び借り出して、コメントを記載するときに改めてすでにコメントを記載していた事に気づく場合もあった。異なった観点からのコメントであったりしてそれなりに楽しいこともあるが、読む前に気づく事にすべきかと考えている。

自宅の書棚の機能は、自分が読んだ書籍を確認できいつでも参照することができるだと思う。ネット上に個人の書棚を持つことは、自分なりの分類区分が作成できる・検索が手軽にできることなど確認機能は強力である。一方いつでも改めて参照できることはせんゆうしていないのであろう。など、自分の書棚が不要になり、必要に応じて複数アクセス可能な図書館から

浅川地下壕の見学:戦争の記録

浅川地下壕の見学:2019年2月16日

 

2019年01月22日(火) に高尾山周辺に散策に行った折、地区掲示板に(社会教育講座)浅川地下壕見学会2019年2月16日午前9時半高尾駅南口集合との掲示を確認した。2019年01月22日(火) に高尾山周辺に散策に行った折、地区掲示板に(社会教育講座)浅川地下壕見学会2019年2月16日午前9時半高尾駅南口集合との掲示を確認した。

高尾山・城山周遊 - 2019年01月22日 [登山・山行記録] - ヤマレコ

ちょっと集合時間が早く都合がつかないかと感じていたところ、以下のホームページを確認したら、2月16日(土)PMでの地下壕見学案内があった。

浅川地下壕

早速メールにて申込、高尾駅南口改札に集合時間13:30の10分程前に着くと既に受付が始まっていた。長靴に身を固めたガイドの「中田均」さんが、子供を背負った方の受付を行っており、付近には既に受付が終了した方々が立っていた。参加費は、配布資料代・保険代で合計400円/人である。

参加者に配布された資料から以下に沿って説明していくようだ。

1.浅川小学校・飯場跡・みころも霊園、2.浅川中学校・引き込み線跡・金毘羅山・ロ地区地下壕・ハ地区地下壕、3.高乗寺・イ地区地下壕(解散)

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予約された方がそろったのを確認して、旗をかざして先頭を行く中田さんの後に三々五々ついていった。南口を出た直後の交差点では、後から来る人を待つなど皆一緒に行動していく。

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浅川小学校・校庭入口横で、中田さんからの説明を聞く。地下壕(総延長10.2km)はイ・ロ・ハの三地域があり、ここからはロのある金比羅山とイのあるその南側の山が見渡せた。また学校は当時尋常小学校で地下壕が掘られた戦争末期には午後からは軍が施設利用していたそうだ。校庭の山側には、地下壕を掘っていた朝鮮からの徴用工の飯場もあったそうだ。

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その後、若干高台にある「高尾みころも霊堂」の休憩所から主に北西側周辺・金毘羅山・初沢山などを確認しながら、イ・ロ・ハの地下壕、またイの地下壕測量時の話題などを説明してもらった。中田さんは、近くにあった東京都立館高等学校の教師で、生徒を指導しながら課題活動として地下壕の測量を行ったそうだ。また生徒たちが当時の徴用工の方々に作業なども含めて戦争時の聞き取りも行ったそうだ(東京都立館高等学校は、平成16年3月末をもちまして閉校しました。 閉校後は校舎内を改装し、平成17年4月より新しい単位制高校(東京都立翔陽高等学校)が設立されました)。

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また米国資料館から得られた浅川地下壕の戦後のGHQによる確認と設置されていた工作機械などの賠償物資としての搬出した経緯などの説明があった。米軍資料によれば設置されていた当時の中島飛行機の工作機械はほとんど国外製で、湿気は機器を錆びさせ、また狭い構内構造と相まって作業効率は悪く労働環境は劣悪だったようだ。

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その後再び三々五々、初沢山のふもとを回り込みながら、初沢沿いに高乗寺にむかった。

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高乗寺の駐車場脇の崖際には入口が封鎖された地下壕があった。右側の電線は内部に設置されている東京大学地震計へ電気を送っているそうだ。

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ヘルメットを貸してもらい、各自懐中電灯などの身支度を整えて、個人宅の庭を通過し地下壕入口に向かった。

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実際に地下壕を見るとその大きさに驚いた。内部は暗闇・早速懐中電灯に頼った行動が始まる。

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まず中田さんが参加者を確認、地下壕での行動時の注意などを行う。慣れない環境注意が必要だと感じていたので適切な動きだと感じた。

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地下壕は内部が四方に分かれている。

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しばらく行くと塞がれていた。オウム事件があった時に警察庁から点検・確認があり、一定のところで閉鎖されたそうだ。

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測量図を掲げながらの地下壕の配置と現在地の説明などが行われています。

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皆熱心に聞き入っています。

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東京大学地震計が置かれている場所も確認しました。確かに岩盤に直接設置できまた近くを車両が通らないなど理想的であろう。設置者との紳士協定で見学は月一回に留めているそうだ。

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若干拡げられた箇所にはいくつかの穴があけられていました。見学者は竹竿で深さを確認します。50-150cm程度でしょうか。穴の奥にダイナマイトを入れ岩を砕き人力で外に出していたようです。

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岩壁から地下水が染み出てツララとなっているところもある・小さな石灰石の石柱ができていた。

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最後にヘルメットを回収し最後の説明。地下壕の広くなったところでセメントが吹きつけられていた部分があった。1999年天井から崩れた瓦礫の中に当時の工事用ダイナマイト3トンを偶然見つけたそうだ。敗戦直後の混乱する中でとにかく隠してしまったのではないかと推測していた。当時は強制連行された朝鮮人の行動を恐れた処置ではないかと推測していた。

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終了後、JR高尾駅周辺まで散策し蕎麦屋のカウンター席で、一人軽く一杯楽しんだ。土曜日の午後5時過ぎということで、テーブル席にはいくつかのハイキング姿の団体の談笑が溢れていた。

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帰宅後戴いた資料を確認した。なかなかよくできていて戦時中の経過経過を含めて理解が広がった

【部分コピー資料】

軍用機エンジン工場・八王子の「浅川地下壕」:産経新聞多摩版2014/09/14

守れ無言の証人:日経新聞2014/07/30

天井に不発弾の痕跡?:東京新聞2015/07/30

浅川金毘羅山の自然と遺跡は残った:市民活動の広場・第121号2014/06/01

【作成取り纏め資料】

1.地下壕の実測・坑道の距離 1993年3月~9月都立館高校フィールドワーククラブ・浅川地下壕イ地区を実測調査:単位cm

2.配置図 資料提供:八王子市郷土資料館

3.浅川地下壕(中島飛行機地下工場跡)見学資料:浅川地下壕関係年表・昭和20年度第一次朝鮮人労務者割当表(日本土木建築統制組合)

4.三つの地下壕

5.米国戦略爆撃調査団報告書:「中島飛行機の地下工場 浅川」・「日本の航空機の地下生産 結論」

6.パンプレット:浅川地区 史跡・自然公園の実現を

7.金比羅山造成阻止と公園化の展望:高尾・浅川の自然を守る会

8.強制連行200人計画が判明 - 浅川地下トンネル・中島飛行機地下工場 中田均:西東京編ー異国に刻まれた怨念の史実、統一評論第357巻1995年3月に加筆・訂正

9.参考文献

 

 

緑内障・その後

点眼薬を利用することになった。基本的なことを確認していこうと思う。

通常の点眼瓶からの1滴の容量は、普通では約40~50μL(0.04~0.05mL)で、そのうち結膜嚢に入るのは約20μL(0.02ml)で、あとはこぼれてしまうそうだ。従って1回の点眼量は1滴で十分。

点眼直後にまばたきをしてしまうと、目薬の成分が涙で流されてしまい、効果が少なくなってしまう。点眼後は目をつぶって、1分程度じっとしておくのが正解。点眼後、目を上下左右に動かすことも成分が目の外に流れ出してしまうので注意。

 目薬も飲み薬同様、過剰に使い続けることで耐性ができやすく、目の場合は耐性ができると涙が出にくくなり、かえってドライアイになりやすいといわれている。

また目薬は通常防腐剤が入っている。 従って使い過ぎには注意すること。防腐剤無添加のものは開封後の使用期限は例えば1週間程度と短い。使用期限は『封を開けなければ持つ日数』のこと。開けた瞬間から有効成分の劣化が始まるため、開封後は防腐剤の有無にかかわらず、1か月で使用はやめるようにする(現在利用中の点眼液は2.5mlなので50日分に相当する)。

一般的に緑内障で利用する点眼薬は強い効果がある。現在利用している点眼薬は、着くと皮膚を黒くするなどの副作用があるそうです。そのためか点眼5分後に洗顔することが推奨されている。一滴をきちんと入れるについては実際にはうまくいかないときもあるが、できるだけ鏡を見ながらきちんと入るような訓練を続けていこうと思う。

点眼剤を利用して、眼の疲れも気になってきた。眼科で相談し以下の点眼薬を適宜利用しています。点眼薬を入れる訓練にもなるかと考えている。

ソフティア点眼液0.02%の効果効能・副作用・用法容量について【千寿製薬株式会社】 [薬検索] All About

一方上記の理由から、点眼薬の多用はできるだけ避ける必要があると感じた。

以下の書籍を読んでみた。参考になる。

緑内障の最新治療 これで失明は防げる 改訂新版の通販/平松 類/植田 俊彦 - 紙の本:honto本の通販ストア

なかでも以下の3点には、注意したい。

1. 枕を高くすることで、寝ている間の眼圧が20%低くなるデータがあり効果的。

2. 白内障の手術については、将来の緑内障の手術を考慮して実施すること。

3. 緑内障の治療は「失明しないため」であり、その前提は「人生をよりよくするため」ためである。「治療に没頭し緑内障のことが頭から離れずに毎日を楽しめないとしたらその治療に意味があるとは言えない」ことに留意すること。

一方最近叔父が亡くなった。92歳であった。従妹と話していたら、彼は緑内障の点眼薬を差していたようだ。眼科を最初に受診したとき「遺伝性の病気なので身内に居たら注意してください」と言われたがあまり深く考えなかった。まあ最近読んだ「40歳から気をつけたい「眼の成人病」」によれば、白内障緑内障・糖尿病網膜症などが老化現象とともに出現するということで注意しながら生活することが重要であろう。